有沢光子がへんてこな親に絡まれている、そんな頃。笹森明人は自分の教室にいた。
 教室内には見慣れたクラスメイトの他、見知らぬ顔も多い。大半は親だが、中には少年少女の姿もある。誰かしらの兄弟だろう。
「兄弟、か」
「どうかしたのか?」
 顔を向けると、神山の面白くもなんともない顔がそこにあった。
「神山君。別に、なんでもないよ」
「そうか。ところで、君に会いたいという人が来ているんだが」
 神山が教室の入り口を目線で指す。見れば、笹森も初めて見る女性がそこにいた。
「知り合い、というわけじゃなさそうだな。どういう人だかわかるか?」
「ううん。でも、僕に用事があるんでしょ? なら聞いてみるよ」
「……。まあ、学校内ではそうそう変人もいないだろうしな」
 苦笑と共に、笹森は教室の入り口まで向かう。
「はじめまして」
 並べば、女性の背丈は笹森にも届いてなかった。どこか疲れたような表情は、化粧が薄いせいかもしれない。普通のシャツにパンツという出で立ちは、スーツ姿の人が多い中で、少し浮いていた。
「はじめまして。僕が笹森ですけど」
「笹森明人君ですね」
 念を押すように言い、
「私は若松といいます。少し、お話してもいいですか?」
「構いませんよ。場所を移します?」
「では」
 二人は階段の近くまで移動した。人の通りはあるが、聞き耳を立てている人物がいるわけではない。
「若松さん、でしたよね。僕のことはどこで?」
「ちょっとしたツテで」
「はあ。それで、どういったご用件ですか」
「特別にどうこう、という用件があるわけではないんです。ただ、少しお話をしてみたいだけですから」
「……?」
 ますます訳がわからない。
 笹森は、特別に有名というわけでもない。有沢や神山のような、この学校で名の知れた存在というわけじゃない、ただの転校生だ。それを、わざわざ学校まで訪ねてくる人物がいるとは。
「あなたは気付かなかったと思いますが、実は授業も拝見しました。真面目に聞いていましたね」
「ええ、まあ。学生の本分は勉強ですから」
「そのぶんだと、成績もいいんでしょうね」
「まだ定期試験も受けたことないですから」
「運動などは?」
「人並には」
 質問に脈絡がない。
 これではまるで、面接か尋問の類だ。しかも、こちらの質問にはろくに答えようともしていない。
 笹森には、この若松という女性が、いまいち理解できなかった。有沢のように何かしらの迷いを抱いている、という気配もない。
「笹森さん。ずいぶんと優しい人なんですね」
「はあ?」
「これだけ意図不明の質問を重ねられたら、普通の人は不気味に思って離れるか、怒ります」
「わざと人を怒らせるのもどうかと思いますよ」
「けれど、あなたは怒っていません」
「ん……」
 否定はできない。
「喜怒哀楽の楽だけが残ったような、そういうアンバランスな感じがありますね。若いうちは魅力になるかもしれません」
「それはどうも。若松さんもだいぶ不安定な感じがしますけど」
「あえて、そうしていますから」
 一呼吸。若松は続ける。
「光子さんと仲が良いそうですね」
「有沢さんの?」
「叔母です」
「へえ」
 あえて見直すと、どことなし、有沢光子と似た雰囲気がないでもない。目元なんかには少しばかり近い雰囲気がある。
「ということは、あのお父さんの?」
「いえ、母親の妹です」
「有沢さんの、お母さん」
 笹森も、有沢の母については聞けたことがない。すでに死んでいる、ということだけは、直接的ではないが、聞き知っていた。
「光子さんの母――私の姉が死んで、もう二年以上にもなります。それ以来、光子さんは、お父さんに心を開いていません」
「それは、なんとなくわかります」
「もともと、父娘仲がよい関係でもなかったんですけどね。父親はなかなか家に帰らず、そのせいで、光子さんはさびしい思いをしていましたから」
「仕事が忙しい人だったんですね」
「それもあるでしょうね。今、光子さんは自宅にほとんど帰ろうとしません。深夜に帰り、朝早くに家を出ています。できる限り父親と顔を合わせないように。土日はバイトで、とかく家に寄りつかず、金銭的に世話を受けることさえ嫌がっています」
「でも、学費とかは……」
「ええ、それは父親が。本当なら、光子さんは学校も辞めたいんだと思います。ただ、それは姉との約束で、やらないだけで」
「お母さんと何か約束をしたんですね」
「姉は高校を中退しました。だから、娘である光子さんだけは、きちんと卒業させたかったみたいです」
「高校中退?」
 有沢の父親を思い浮かべる。会ったことはないが、地元の名士で、どこかの社長をしていると聞いた。そういう人物の妻が、高校中退とは思わなかった。
 もちろん学歴などで差別されるのはおかしいが、学歴は、人間関係にも大きく影響する。ありていに言って、極端なまでに学歴差がある人物同士は、なかなか接点がないものだ。
「光子さんは、万事があの調子で。当然ながら友達もいませんし、他人との交流を断ち切っています。学校での評判がすこぶる悪いこともわかっています」
「はは、えーと、まあ、そうですね」
「だからこそ、ちょっとお話をしてみたくて。あの光子さんを説き伏せるような人がどんな人なのか」
「……過保護な母親みたいですね」
「いえ。それほどでは」
「それほど有沢さんが心配なら、本人にそう伝えてみればいいんじゃ? 言わなければ伝わらないこともあると思います」
 笹森の言葉に、若松は少しばかり言葉を詰まらせた。少し待ち、ようよう出てきた言葉は、一言。
「もう手遅れですから」
 何が、とは言わなかった。けれど、笹森には、なんとなくわかるような気がした。
 そして、それだけに、納得はしない。
「僕は、信じません。人と人の繋がりに手遅れなんて絶対にないって」
「子供みたいですね」
「子供です。だから信じます。人間、心変わりなんていくらでもします。そりゃ、何年かは必要かもしれない。お互いに歩み寄る努力も必要だと思います。だけど、何かをすれば何かが返ってくる。人間の心はそういうものじゃないですか」
「私は、心理学者ではありませんから」
「一般論です」
 ちら、と若松は腕時計に視線を落とした。
「もう時間のようですね」
「若松さん――!」
「笹森君。あなたのような人が光子さんのそばに居てくれることは、とても嬉しいことです。私も安心します。それを、光子さんに伝えてあげてください。あなたなりのやり方で」
「なら、若松さんは?」
「私たちはもう大人です。大人って、なかなか変われないんですよ。だから、子供に期待するんです」
 ぺこり、と小さく頭を下げ、若松はそのまま階段を降りていった。
 ちょうど、チャイムの音が鳴り響いた。



 
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