いくらかの沈黙。やがて、黒木はぽつりと呟いた。
「……憶測に過ぎない」
「そう、それが最大の問題でもあったわ」
 今までの推理は、全て、状況証拠から推測したものに過ぎなかった。
 最初の事件後、教師たちが追求しようとしていたのは事実だし、ナイフを没収したことも間違いない。有沢が犯人かもしれない、という段階で教師たちが臆したのも事実だ。
 だが、それらは間接的な証拠にすらなっていない。
 肝心の、誰が強盗事件を起こしたのか、その物的証拠となるものは何もないのだ。
 事件が起きた時、それに対する証拠は、何かしら残るだろう。指紋や毛髪、傷跡からの科学分析、証人探し等々。証明しようと思えば、なにがしかの証拠は得られる可能性が高い。
 だが、事件が起きていなければ、それも難しい。
 狂言犯罪を相手取る最大の難点は、それが狂言である証拠が何もないことにある。
 起きたことを証明するのは難しいかもしれない。だが、起きていないことを証明するというのは、さらに難しいのだ。
 だが。
「だった、というのは?」
「言葉通り。過去形よ」
 有沢はまっすぐ指差す。その先、黒木の懐を。
「あんたが持っていったもの。見せてもらいましょうか」
「何のことだ」
「力ずくでもいいのよ。二人がかりなら、さすがに負けないわよ」
「……」
 一瞬の沈黙。やがて、黒木は降参するように、懐から盗品を取り出した。
 赤岩の机に入っていたはずの、脅迫状だった。
「あんたが夜中、学校に忍び込んでまで、それを手にしなければならない理由は何?」
「説明する義務はない」
「あたし相手にはなくとも、校長相手ならあるんじゃない? あんたがここにいたこと、証明するのは、それこそ何も難しくないわよ」
「なら、訂正しよう。私は今回の事件に関して、教師として調査する責任がある。そのため、証拠をコピーしておこうと思っただけだ」
「下手な嘘ね」
 こほん、と咳払い。見れば、笹森が何かを言いかけていた。有沢は口をつぐむ。
「黒木先生。先生は、吉村君のこと、どう思っているんですか?」
「どう、とは?」
「実の息子なんでしょう」
 これには、今まで感情らしき感情を表にしなかった黒木も、さすがに目を丸くした。
「吉村君は言っていました。あのナイフは父親から貰ったものだと。彫り込んであったイニシャルはK.K.でした。吉村君の名前だとY.Y.だから違いますよね。かといって、父親なら、〜.Y.というイニシャルでなければおかしい。そこで、思ったんです。もしかすると、吉村君とお父さんは、名字が違うんじゃないかと。そして、保護者欄にあった名前は『KUROKI』。誰でも想像しますよね」
 ふと見やれば、黒木はかすかに震えていた。
「その手紙の主。黒木先生なら一目でわかりましたよね。実は、吉村君にお願いしたんです。薄々ですけど、彼も犯人が誰なのか、勘づいていたみたいで……。僕たちが脅迫状を書くようにお願いしたら、受けてくれました。先生をおびき出す為に。
 黒木先生が、吉村君に対して少しでも愛情を残しているのなら、きっと手紙は処分するだろうと思って。そうしないと、調査をすれば吉村君が書いたことがわかっちゃいます。犯人じゃなくとも、騒ぎを起こせば、処罰は免れないですしね」
 一息。笹森は、その純な瞳で、黒木を見つめる。
「先生。こんなややこしい手法を選んでるくらいです、よほど複雑な環境なのかもしれないですけど。でも、事件を起こすというのは、少し違うんじゃないかなって思います」
「う、るさい。君に、君に何がわかる!!」
 顔を赤くし、握った拳は震え、目元はうっすら輝いていた。歯を食いしばった形相は、恐ろしくさえある。
 怒り、悲しみ、痛み。なんと呼びあらわすのかもわからないが、そこには、多様な感情が渦巻いていた。
「黒木……」
 初めてだった。黒木がこれほど感情を表にするのを、有沢は今まで見たことがなかった。
「君たちのような子供に、親の気持ちがわかるか!? あの子と別れたのはもう十年以上も前だ! ほとんど顔さえあわせていない! いまさら、どの面さげて親のように説教しろと言うんだ!」
 強い感情の波。それは、有沢の内を揺さぶる。
「あの子が考えていることなんてさっぱりわかりゃしない! だが、ナイフはそれだけで凶器だ! 子供に持たせておけるか!? あの子が誰かを傷つければ、それは誰の責任になると――!!」
 揺さぶられて、大きくなる感情。それは――怒りだ。
「ふざ、けんじゃないわよ!!」
 あまりの怒声に、思わず黒木さえ言葉に詰まった。その隙に、有沢はまくし立てる。
「何が責任よ!? どの面なんて関係あるわけ!? あんた、親なんでしょうが! 親が子供を叱らないで誰が叱るのよ! 悪いことしたなら殴ってでも聞かせなさいよ! 黙っていたらわかんないでしょうが!!」
 ツカツカと歩み寄り、そのまま胸倉をつかむ。
「あんたは誰の心配をしたわけ!? 息子が孤立するのを嫌がったんじゃないの!? 息子のためを思ったからこそ、取り上げようと思ったんじゃないの!?」
「そ、れは……」
「吉村が大切ならそうだって言えばいいじゃない!! たった一言じゃない! 『なんで持ち出したんだ』って、それだけでよかったじゃない! あんたが何も言わないから、吉村が不安になるんでしょうが!!」
「不安――あの子が?」
「先生。なんで吉村君が先生のナイフを持っていったのか、わかりますか」
 黒木は首だけで後ろを向いた。笹森は、笑いながら、悲しんでいた。
「不安だったんです。お母さんが亡くなって、父親である先生に引き取られたはいいけど、先生は吉村君と正面から向き合おうとしなかった。だから、吉村君は確かめたくなったんです。彼が悪いことをした時に、本気で叱ってくれるのかどうか。それが、吉村君にとって、愛情を確かめる手段だったんです」
「ッ!!」
「だけど、先生はやっぱり向き合いませんでした。それが、どれだけ悲しいことか、わかってくれますか」
「そ、れは」
 黒木は、握った拳を離す。力が抜けていた。
「なん、で……よ」
 震える声。有沢だった。
 先ほどまでの、嵐のような感情は、どこかに消えていた。残っていたのは、年相応の、弱々しい少女の悲しみ。
「好きなら、好きだって言えばいいじゃない。言ってくれなきゃ、わかんないわよ。愛されないことがどれだけ悲しいことか、あんた、想像した?」
 声が震えていた。しっとりとあいをはらんだ言葉が、黒木の胸をえぐる。
「なんでよ、バカ……」
 それ以上、言葉にならなかった。嗚咽を漏らす有沢を前に、黒木は何も言えない。
「黒木先生。世界で一番不幸な人ってどんな人だと思いますか」
「――え?」
「愛すること、その対極にあるのは、怒りや悲しみじゃありません。相手にされないこと。存在を認めてもらえないことです」
「……。『この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていない、と感じることです』。マザー・テレサ、だね」
「はい」
 かすかな笑みを浮かべた笹森に、黒木もつられ、表情を緩める。
 視線を下げる。言葉にならない言葉を漏らす有沢。その頭を、そっとなでてやった。親のように。
「……私はね、あの子が三歳くらいの時に離婚をした。なんて言うのだろうな、お互い、結婚すべき相手ではない相手を選んだ、そんな印象がある。息子は妻が引き取り、私はそれ以来、仕事の忙しさにかまけて振り返りもしなかった。
 妻が死んだと聞いても、私は涙ひとつ流さなかった。それほどまでに感情を抱いてなかった。そして、息子を引き取った時、私は思ったんだ。どうすればいいのだろう、と」
「何も難しいことなんてないでしょう。だって、親子じゃないですか」
 黒木は微笑を浮かべる。授業の時、できの悪い生徒に解説するような、そんな顔だった。
「君もいずれわかるさ。血がつながっていても、交流がなければ他人だ。考えが読めるわけじゃない。ましてや、私たちは十年以上も顔さえ合わせていなかった。今さら接し方なんてわからなかったんだ。
 ……それが、いけなかったんだろうな。いや、自分でも、わかってはいたはずなんだ。ただ、目をそむけていただけで」
 黒木はそっと有沢を抱き寄せ、言った。
「明日、校長に申告する。虫の良い話かもしれないが、それで許してもらえないだろうか」
「僕は構わないですけど……」
 笹森は有沢を見やる。今まで少女のように弱々しかった有沢は、すでに泣きやんでいた。
「条件があるわ」
「何かな」
「吉村と話をしなさい。徹底的に。それでチャラにする」
 驚いたように目を丸くした黒木だったが、すぐに続けた。
「わかった。ありがとう」



 
戻る