一陣の風がそよぎ、暖かな日差しが差し込んでいる。
 ゆらゆらと揺れる背中の毛並みを眺めながら、有沢は膝上の猫をそっとなでる。
「うにゃ〜」
「はいはい」
 彼女の周囲に猫たちが集まってきた。
 ごろりと転がり、腹を見せる猫。なでてやると喜ぶ。
 あるいは、後ろで丸くなる猫。なでろと命じる風もなく、けれど、離れる様子もない。そこがベストポジションなのだろう。
「ま、そういうことだったわけよ、大将」
「……にゃ」
 大きな猫は短く返事。返答してくれただけ、マシかもしれない。
 ここの猫たちはいつだってそうだ。人の言葉を理解し、感情を読み取っているようなそぶりを見せるが、猫らしい自由さは変わらない。結局、人間の思い込みなのかもしれない。
「もうすぐ笹森も来るらしいけど……」
 ふと、視線を丘の下に向ける。
「言っているそばから来たみたいね」
 がさがさと下草を踏みならし、三人の少年たちが姿を現した。
「あれ? 吉村と神山も来たわけ?」
「僕が連れて来たの。迷惑だった?」
「あたしは別に」
 大将に挨拶し、吉村と神山はきょろきょろと周囲を見渡す。
「こんなところが近くにあったとは、意外だな」
「……うん」
 めいめい、適当に腰を下ろす。有沢は、笹森を見た。
「どうなった?」
「校長先生に話はしたらしいね。学校側としても話は大きくしたくないから、表向きに処罰はしないけど……、今年度で退職することに決まったみたい」
「すぐじゃないのね」
「生徒に被害者がいなかったのは大きい。実質的に被害を受けたのは白井先生だけだ。校長が確認したらしいが、告発する意思はないそうだ。黒木先生の事情を聞いて同情したんだろう。
 それに、聖書学の教員がいなくなってしまうという問題もある。現在、うちの学校に在籍している教員では、聖書学を教えることはできない。代わりは少ないが、まあ、見つからないこともないだろう」
 神山が補足する。神学を教えられる教員は決して多くはないが、神学校は少なくない。当然、専任教師もそれなりにいる。
「ふうん。それじゃ、あんたも大変ね、吉村」
「なんとかなるよ」
「……。あんた、顔つきが変わったわね」
「そう?」
 実際、彼の表情は、どこか柔らかくなっていた。肩の荷物を下ろせたからかもしれない。
「黒木とはどうなの」
「うん、ただ、話が足りなかっただけ、かも」
「そ。なら、少しは成果あったのかもね」
「君が涙ながらに説得した甲斐があったというわけだな」
「ッ!?」
 バッ、と振り返った先、笹森は例によってへらへら笑っていた。
「さ、笹森!? あんたなんて話をしてくれてんのよ!?」
「有沢さんって、たまに可愛いよね」
「あんたぶっ殺されたいわけ!?」
 顔を赤くし、叫ぶ有沢。そんな中、くすっ、と笑い声が聞こえた。見れば、吉村も笑っていた。
「それにしても、驚いたよ。いきなり、脅迫状を書いてくれ、なんて」
「黒木があんたのことを思って事件を起こしたなら、引っ掛かると思っただけよ。それより、あたしの方が驚いたわ。あんたが片親なんて」
「普通、もうちょっと言葉を選ぶと思うよ」
「悪かったわね。あたしはそういうことしないのよ」
「少しは歪曲的表現でも覚えたほうがいいんじゃない? 図書室にあるおすすめの本でも教えようか」
「あたしは本も読まないの」
「……。笹森君、この人とどうやってコミュニケーションを取ったの?」
「うーん、普通に?」
 笹森明人の心は高校生級ではないのかもしれない。
「コミュニケーション能力に関してあんたにとやかく言われる筋合いはないわ。昔からそういう風なわけ?」
「まあ、母さんが生きていた頃は少しくらい違ったかもしれないけど。もともと、自分で言うのもなんだけど、おとなしい性格なんだと思うよ。誰かと騒ぐより、図書室にいる方がいいしね」
「じゃあ、いつも図書室にいるのも、本が好きってだけ?」
「まあね。それに……、図書室にずっといる方が、父さんに近かったから」
「ファザコン?」
「違うよ。ただ、父さんは僕を引き取ってから、一度も僕を見ようとしなかった。後ろめたい気持ちがあるだろうってのはわかっていたつもりだし、学校で噂になるのも嫌だったから、僕も何も言わなかった。あるいは、それがいけなかったのかもしれない。
 最初から、ちゃんと話をしようとすればよかったんだね。話をしなければ相手が何を考えているのかわからない。どういう人で、どういうところで生きて、何を考えていたのか、わからないままだ」
「そんなの当たり前でしょ。みんなそうやってるもんじゃないの?」
「それを君が言うのか」
「バ会長うっさい」
「それが君の言うコミュニケーション能力というものか?」
 こほん、と喉を鳴らした神山は、吉村に向き直る。
「そういえば、聞いてみたかったのだが。吉村君は、実のところ、事件の真相に気付いていたのではないか」
「どうしてそう思うの?」
「なんとなく、ね。脅迫状に関する要請をした時、どうも自然に受け入れ過ぎていた気がしたんだが」
「うーん。まあ、まったく考えなかったわけじゃない、かな」
 これには、有沢も目を丸くした。
「じゃあ、あんたは最初から黒木を疑っていたわけ?」
「最初は、だよ。父さんを襲う人なんてそうそう思い当たらないし、財布を盗むだけなら、いくらでも方法はあった。それに、なにも父さんを選ぶ必要もなかったと思う。
 そうやって考えれば、もしかしたら狂言なのかな、って思った。ただ、白井先生が襲われて、わからなくなったんだ。最初はともかく、誰かを襲うようなこと、父さんがするのかなって」
「ふうん。なかなか人を見ているのね、あんたも」
「黒木先生、それくらい追い詰められていたんだね」
 ふん、と鼻を鳴らした有沢。視線を吉村に向け、じっ、とその横顔を眺める。
 確かに、彼の顔つきは、ほんの少しだけ変わっていた。この数日で何が変化するわけでもない。変わったとすれば、それは、彼の内面だ。
「……。吉村。黒木は、その、ずっとあんたを愛してたのよね」
「――ん。言葉にすると気恥ずかしいけどね。まあ、そんなことを言っているから、伝わらないのかもしれないんだけど」
「そう……」
 そわそわと、有沢は何かを言いたげだった。三人の男子は不思議そうに彼女を見るが、有沢はいまいちはっきりしない。
「あー、その、笹森」
「何?」
「いいからこっちに来なさい!」
 吉村と神山には聞かれたくないのだろう、二人から距離を置くように、丘の中心まで移動する有沢。引っ張られ、笹森も付いて来る。
「笹森、その、無理にとは言わないんだけど」
「うん?」
「あのさ、あんた、夜とか……、あいている日、ある?」
「夜? まあ、だいたい大丈夫だけど」
「そ、そう。じゃあ、あー、ウチに来て欲しいん、だけど」
「有沢さんの家に?」
「か、勘違いされても困るんだけど、その、あんたくらいしか、頼めそうにないし」
 彼女の言いたいことは、笹森にもなんとなくわかった。あるいは、笹森だからこそ理解できたのかもしれない。捉え方によっては、今の言葉はひどく危なっかしい。
「い、嫌なら別に、無理してもらうようなことでもないんだけど」
 そう言って、ちら、と有沢は見上げる。意図は感じられない。本当に、その願いを口にすることは、彼女にとって勇気がいることだったのだろう。だからこそ、他のことについて考えている余裕がない。
 今回、有沢は、事件に巻き込まれただけの被害者だった。だが、そんな事件でも、何かは彼女に伝えられたのかもしれない。
「いいよ、有沢さん。付き合うよ」
「ん……。まあ、感謝しといてあげるわ」
「ふふ、ありがとう」
 笹森は、ちらり、と大きな猫を見た。
 大将は少しだけ笹森を見上げ、また丸くなって眠ってしまった。



 
戻る