笹森が有沢の自宅を訪ねるには、細々とした調整が必要だった。そんなこんなで、結局、笹森が有沢邸を訪れたのは一週間以上も後のことだった。
 土曜日の夜。時刻にすればすでに八時をまわっていた。
「大きな家だなぁ……」
 素直な感想をこぼしながら、笹森はチャイムのボタンを押す。程なく、はい、という陰気な声が返ってきた。
「笹森と申します。光子さんはいらっしゃいますか」
『どうぞ』
 返事としてはいまいち噛み合わない気もしたが、錠が外れる音は確かに聞こえた。
 門をくぐり、広い庭を横切って、玄関の前に立つ。
 純洋風の邸宅。普段は接することのない外観に、普通の少年ならば、多少は気後れすることだろう。
 鈍感なのか、単純に考えていないだけか。笹森は割と無造作に扉を開く。
「いらっしゃいませ、笹森さん」
「こんばんは。若松さん」
 出迎えたのは、疲れた感じのある女性だった。参観日、笹森の様子を見に来た、あの女性だ。
「光子さんもすぐ来るでしょう。応接室でお待ち下さい」
「ええ、わかりました」
 案内されたのは、十畳ほどの応接室だった。中央に重そうな木机があり、挟み込むようにソファが設置されている。今は閉め切られているが、カーテンを開けば、先程の庭が見えることだろう。
 ソファに座って待っていると、程なく有沢が姿を現した。
「悪かったわね」
「別に、たいしたことじゃないから」
 有沢は、笹森と並ぶ位置に腰を下ろした。隣を見やった笹森は、何も言わなかった。
「あいつも、すぐ帰ってくるはずよ」
「うん」
 春にしては暖かすぎる夜だった。だのに、有沢は、ほんの少し震えているようにも見える。
 どうすべきか、迷った笹森は、有沢の手に自分の手を重ねようとして――。
「ん?」
 止まる。間に割り込むように、大きな物体が邪魔してきた。
「あれ? 大将?」
「なっ!?」
 今の今まで、有沢自身も気付いていなかったらしい。どこから入ったのか、巨大な猫が、有沢の膝上に鎮座しようとしていた。
「た、大将!? あんたどうやって……」
「うにゃ」
 尻尾でぱしっ、と、はたく。そして、大将はそのまま丸くなってしまった。
「……。大将も有沢さんが心配だったのかな」
「ま、まさか。猫よ」
「まあ、そうなんだけど」
 一笑に伏すことができないあたりが問題だ。
 嫌ならば外に出せばいいのだ。野良猫である以上、勝手に住処まで帰ることだろう。だが、有沢はそうしなかった。
「……」
 沈黙の時間。それも長くは続かない。
 外から車が止まる音が聞こえてきた。びくり、と明確に有沢の体が硬くなる。
「有沢さん」
「わ、かってる」
 何をわかっているというのか。
 それから五分ばかり待つと、応接室の扉が開き、一人の男性が姿を現した。
 白髪交じりの黒髪。威厳のある、しわの深い顔。背丈は男性として特筆するほどのものではないが、全体的に逆らい難い雰囲気がある男だった。仕事帰りそのままなのだろう、グレーのスーツ姿だった。
「何の用事だ。私も忙しいんだが。今の今まで仕事だったくらいにな」
 有沢の父、宗太郎。笹森からすれば初対面の相手だ。
 その宗太郎が、笹森に視線を向ける。
「ところで、君は?」
「笹森明人といいます。有沢さん……、いえ、光子さんの友達です」
「友達、ね」
 わずか、視線をぶつけただけで、興味はないとばかりにそらされる。宗太郎は正面に座る娘を見やり、続いて、膝の上で丸くなる物体に目をやった。
「いつの間に猫を飼ったんだ」
「野良よ」
「そうか」
 それ以上、追及はしなかった。娘が何をしようと構わない、とでも言いたいのだろうか。
「それで。わざわざ呼び出したんだ。それなりの用件があるのだろう」
「……。あんた、いつもそんな言い方ばっかりね」
 不良少女の右手が猫に、左手が笹森の近くまで伸びる。笹森は、そっとその上に手を重ねた。
「母さんは最期に言っていたわ。あんたを許せって。不器用な人だから、って」
「母さんが?」
 初耳だったのだろう。宗太郎は片眉をはね上げた。
「いつも言っていたわよ。不器用な人だから仕方ないんだって。あたしはずっと、母さんが勘違いしているもんだと思ってた。あんたのこと、好意的に解釈し過ぎていたんだって」
 宗太郎は、否定しなかった。有沢は構わず続ける。
「でも、この間、ちょっとした事件があって……。それで、思ったのよ。男って意外とバカなのね。
 建前とか見栄とか世間体とか、気にしても仕方ないことばかりを気にして、そのせいで振り回されている。そういうところがあるのよね、男の人は」
「男性全体に当てはまることかどうかは知らんが」
「ま、それはそうね。ただ、そういう奴もいたんだってこと。てことは、そういう可能性を考えてもいいのかもしれない、ってこと」
 有沢は父を見据える。迫力のある、熱気のこもった視線だった。
「あたしは、あんたを信じていいわけ?」
 宗太郎は、すぐには答えなかった。黙って娘の目を見る。
「信じる、とは、どういう意味だ」
「あんたはあたしの父親なわけ?」
「当たり前だろう」
「血筋なんか関係ないわ。血がつながっていなくても親子にはなれるし、血縁でも親子じゃなくなることだってある」
「では、親子であることの証明とは何だ。親子とは何か、という哲学的な問題ならば、正答などなかろう」
「あんたはッ……!」
「有沢さん」
 笹森の一声で、有沢は浮かび上がりかけた腰を戻す。
「お父さん。少し、僕からお話してもいいでしょうか」
「……。何か?」
「有沢さん……、いえ、光子さんって、寝ている時にぎゅっと握りしめる癖があるんですね」
「笹森?」
 いぶかしげな視線を送る有沢に、笹森は、任せて、とばかりにウインクする。
「それが?」
「いえ、特別な意味では。そういえば、首筋のところに、ほくろがあるんですね。知っています?」
「――。どうして娘の細かな身体的特徴まで知っていなければならない」
「いけない、ってことはないです。あ、太もものところに……」
「なぜそんなところまで知っているんだ君は!」
 腰を浮かした宗太郎を前に、笹森は表情を崩さない。
「落ち着いてください、お父さん。娘さんに興味がないなら、別に僕が何を知っていようと関係ないですよね」
「くっ」
 宗太郎は腰を下ろす。だが、どこか苛立たしい雰囲気はぬぐえない。
「私は、娘に興味を持っていないなどと言った覚えはない。その子は私の娘だ。そうである以上、それなりの責任もある」
「でも、娘さんと僕がどういう関係なのか、なんてことまでは、言及する必要のない事柄じゃないですか?」
「関係ある、光子はまだ未成年だ。親が保護しなければならない年齢だ」
「家にも帰らない娘を放っておきながら?」
「どこにいるかは常に把握している」
 言ってから、宗太郎は『しまった』という顔をした。笹森の口元がさらに緩む。
「これじゃダメかな、有沢さん」
 じろりと隣をにらんだ有沢は、鼻を鳴らす。
「ま、上出来でしょ。あんたにしちゃ」
「ありがとう」
 ソファに体を沈めた有沢は、ぽつりと呟いた。
「男って、本当にバカね」



 
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