沈黙が降りた。有沢はソファに体を沈めたまま、何も言わない。笹森はもはや問うこともなく、大将はあくびをしながら丸くなっていた。
 子供たちをにらむように見つめていた宗太郎は、少し口を開き、また閉じる。何かを言おうとしているのに、言葉を見つけられないでいた。
 そんな調子だから、と有沢は思う。言いたいことがあるなら、適切な言葉でなくともいい、とりあえず言ってみればいいのに。言いたいことなど、口にしていれば、そのうちまとまってくるのだから。
「あー、光子」
「何よ」
 言葉に言葉が返ってくることを確認し、宗太郎は続ける。
「お前は、私と母さんがどこで知り合ったか、知っているか?」
「……? 知らないけど」
「喫茶店だ。母さんは小さな喫茶店のバリスタだった」
「バリスタ?」
 ノン・アルコール飲料、とりわけコーヒーを淹れる専門の職人だ。日本では決して馴染みのある職業ではないが、欧米では珍しくない。
「母さんは結婚を機にやめてしまったがな。私がたまに帰ると、決まってコーヒーを淹れてくれたものだ。深く、苦味の中に甘みのある、不思議な味わいだった」
 少し待て、と言い置くと、宗太郎は部屋を出て行った。
 やがて、盆の上に、カップやらミルやらを乗せて戻ってくる。
 ミルに焙煎した豆を入れ、こりこりと挽く。綺麗に挽けたら、豆をフィルターに乗せ、ポットのお湯を注いだ。さすがに喫茶店リアンではないので、ペーパーのフィルターを使っている。
 コーヒーのふくよかな香りが室を満たす。
 有沢は、父親がコーヒーを淹れているところを初めて見た。それどころか、父親がミルを使うような、本格的なコーヒーを淹れられることさえ知らなかった。そもそも、そんな道具が家にあったことさえ知らない。
 コーヒーを淹れる間、宗太郎は黙っていた。その真剣な横顔に、有沢も声をかけることをためらう。
 やがて、サーバーが黒い液体で満たされた。宗太郎はカップにコーヒーを注ぐと、子供たちの前に置いた。
「ためしに飲んでみるといい」
 言われた通り、有沢はそれを口に運んでみた。
 やけに強い苦味だけが感じられた。
「まずいだろう」
「そうね」
「正直だな。母さんが死んだ後、何度か試してみたんだが、同じ豆と同じ道具を使っても、母さんのように淹れることはできなかった。私が淹れると、決まって苦くなる。性格が出るのかもしれん」
 苦いだけのコーヒーをすすり、宗太郎は続けた。
「母さんは仕事をやめ、親に徹した。私は仕事を続けた。家族を守るという建前の下、本質を見ていなかった。金銭がなければ生きていくのは難しいが、金銭より重要なものがあることは忘れていた。母さんが教えてくれたのにな」
「……」
 手元に視線を落とす。一杯のコーヒー。
「コーヒー。自動販売機に百円玉を入れるだけで飲めるようなもので、幸福になれることもあるのだと……、どうして、見ようとしなかったのか」
「……それは、懺悔のつもり?」
「まさか。ただの後悔だ」
 自分で淹れたコーヒーをあおるように飲み、宗太郎は立ち上がった。
「光子。たまには帰りなさい」
「毎日、帰ってきてはいるわよ。夜中だけど」
「夜、眠りに来るだけならば、ホテルと変わらん。心を休める場所に戻ること、それが帰るということだ」
「いちいちこうるさいわね。もっとストレートに言えないわけ?」
 ちら、と有沢を見下ろした宗太郎は、ほんの少し、口元に笑みを浮かべていた。
「本当に、母さんにそっくりだな。よく言われたものだ。だが、光子、甘そうなエスプレッソは存在しない」
 そのまま、宗太郎は部屋を出て行った。残った有沢は、深く深く、息を吐く。
「だから、ストレートに言いなさいって言ってんのよ。バカ親」
 かたわらに座る笹森は、ほんのり笑みを浮かべたまま、何も言わなかった。

 ◆

 夜道。一人の少年と一人の少女と、そして一匹の猫が並んで歩いていた。
「有沢さん、本当はわかっていたんじゃないの?」
「何を」
「お父さんが有沢さんのこと、すごく心配していたってこと」
「……」
 有沢は答えなかった。
「叔母さん、だっけ? あの人、学校にも来ていたよ。授業参観日に」
「そう、なの?」
 初耳だったらしい。同じ家に住んでいて、顔も合わせているのに、そんなことも知らなかったほどの関係。
 それほどまでに、彼女たちは家族ではなかったのだ。
「お父さん、有沢さんがどういう生活をしているのか、ちゃんと見ていたんじゃないかな。もちろん、自分の手でってわけじゃないだろうけど」
「どうせ教師に連絡とかさせてたんでしょ。せこい男よ」
「でも、心配はしていたんじゃないかな。僕が有沢さんと仲良くなったの、すごく気にかかったみたいだよ」
「……。娘の交友関係に口を出す親って、最低ね」
「別に口を出していたわけじゃないよ。ただ、どういう人が自分の娘に近づいているのか、それは知りたかったみたいだけどね」
 そう言って、笹森はくすくす笑った。
「こうして無事に帰れたってことは、認めてもらえたってことかな?」
「無事にって何よ」
「そうでなかったら、帰れないような状態になったかなって」
「冗談でしょ?」
「うん、冗談」
 一瞬、拳を握る気配が伝わり、笹森は大将と顔を見合わせた。
「うにゃあ」
 今のはお前が悪い、と言わんばかりの顔だった。
 はぁ、とため息をついた有沢は、地面を見つめながら言葉を漏らす。
「あいつが、母さんの話をするの、生まれて初めてだわ」
「そう、だったんだ」
「母さんが死んでからは顔も合わせないようにしていたし、それ以前だって、会うことは少なかったもの」
「親子なのに?」
「血縁関係ってだけ。あたしはあいつと親子じゃなかったわ」
「僕は、血のつながりって、とても大事だと思うな。たとえ今は親子じゃなかったとしても、つながっているんだから」
「そうかしらね。……ん、まあ、そうかもしれないわね」
 しばし、沈黙の時間。それも、駅前までだった。
「ここまで来たらわかるから、後は大丈夫」
「ん。じゃ」
「うん、また学校でね」
 ちらりと笹森を見た有沢は、すぐ視線をそむけた。
「その。まあ、今日のことは、感謝しておいてあげる」
「ん、ありがとう」
「あんたは……、ストレート過ぎよ」
婉曲えんきょく的よりはわかりやすくていいでしょう?」
「まっすぐなら良いってもんでもないわ」
 はぁ、とため息をつき、有沢は歩き出す。
「まあ、今度、お礼するわ」
「え?」
 返事はさせないまま、有沢は夜闇に消えて行く。
「にゃあ」
 一声、大将もそれに付いて行った。
 残され、笹森は頭をかいて、結局は歩き出す。


 ◆ ◆ ◆


 有沢はまだ知らなかった。
 その選択は、また別の悪夢を開く鍵だったということに。



 
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