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「……なんでこうなるのかしらね」 パーカーのポケットに手を突っ込み、有沢光子は建物を見上げる。 笹森家はごく普通の一軒家だった。有沢邸と比べるとずいぶん見劣りするが、比べる対象が間違っているとも言える。 有沢はインターフォンの前で軽く深呼吸すると、なかば覚悟の表情でそれを押した。 間を置いて、はい、と返事がきた。聞き覚えのある声だ。 「有沢、だけど」 『あ、有沢さん? 入ってきて』 言われたとおり、門扉を通って階段をのぼり、玄関口に立つ。 改めてチャイムを鳴らすと、笹森の顔がのぞいた。 「いらっしゃい、有沢さん」 「別に来たかったたけじゃないわ」 憎まれ口も、むなしい響きをともなう。なにせ、何を言おうとも、実際に足を運んでいるのは有沢の意思なのだ。 有沢があがりこむと、ひょい、と母親が顔を見せた。参観日に会ったばかりなので、顔もしっかり覚えている。白髪交じりの、少し老けた印象を与える女性だ。髪を染めればいいのに、と思う。 「あら、いらっしゃい」 「……邪魔するわ」 有沢にとって、この母親は苦手な部類だ。 だが、それを言えば笹森明人も同類で。なんのかんのと文句をたれつつ良好な関係を築けている以上、苦手も何もない。 「今日はよろしくお願いね」 「はあ」 にこやかな母親を前に、有沢はそんな言葉しか出ない。 そもそもの始まりは、先日のお礼にと、有沢が菓子を作ったことにある。 リアンのメニューには軽食もあり、有沢はその大半を作ることもできる。その技術を応用したに過ぎないのだが、それにいたく感動したのが笹森の母だという。 『母さん、有沢さんにお菓子作りを教わりたいって。お願いできないかな?』 できないわね、と一蹴したいところだったが、受けた恩もある。むげにもできず、仕方なしに引き受けることになった。 そして、その結果がこれである。 「それじゃあ、まずは何をすればいいかしら!」 やけに気合の入った母親。有沢のテンションとは雲泥の差。 「あの。まず、何を作るか聞いてないんだけど」 「母さん。それ以前に、お客さんにいきなりそれもないと思うんだけど」 「あら、私ってばうっかり。そうね、コーヒーでも淹れるわね!」 ふんふん、と鼻歌まじりに台所へと向かう笹森母。 「笹森。あんたの母親、いつもあんな感じなわけ」 「いつもはもう少し落ち着きがあるんだけど」 「少し、ね」 たぶん自分が笹森家に馴染むことは一生涯ありえないだろう、と心の底で思う有沢だった。 ◆ ゆらめくコーヒーの湯気。ほんの少し口に含むと、ふんわりとやさしい苦味と共に、かすかな酸味が感じられる。 「――おいしい」 「でしょ?」 思わず漏れた言葉だったが、すぐさま拾われてしまった。 だが、と思い直す。このコーヒー、確かに本物の味だ。インスタントのような、コーヒーもどきの味ではない。 「コーヒーが好きなの?」 「私はそれほどでもないんだけど、息子が好きで、ついつい勉強しちゃった」 「息子?」 横目に見る。リアンでは、笹森はミルクティーしか頼まない。コーヒーが好き、などというのは聞いたことがなかったが、親の前で見栄でも張っているのだろうか。 彼は、今も平然と母親のコーヒーを飲んでいた。ウチでは頼んだことないのに、と胸中で毒づく。 「うふふ、それにしても、やっぱり明人を選んだのねえ」 「何よ、それ」 「またまたー。優良物件、って言ったでしょう? お目が高い」 「だ、か、ら! そんなんじゃないって言ってんでしょうが!」 「ねえねえ、どこまで進んだの? キスくらいした? それとも、もっと凄いことしちゃってる?」 「してない! というか親が子供に聞くこと!?」 思わず浮かび上がった腰を落とす。意図せずため息が漏れた。 「笹森、あんた、いつもこんなの相手にしているわけ?」 「どうってことないよ」 「……。あんたのスルースキルが無駄に高い理由、わかった気がするわ」 おそらくだが、有沢がこの家の娘だったなら、一週間ともたない。 「それで、何を作りたいわけ」 「明人、何が好き?」 「コーヒーに合うものがいいね」 「コーヒーに、ね」 もはや母親の態度には諦めて、有沢は自分で作れるメニューを考える。 喫茶店のメニューというのは、大半がコーヒーや紅茶のお供にふさわしいものだ。軽食でいえばサンドイッチやナポリタン。お菓子の類でいえばパイやケーキが多い。 リアンのメニューも、一般的な喫茶店と大差ない。それはすなわち、有沢のレパートリーだ。 「お菓子、何か作れるものは?」 ためしに聞いてみた。料理をする人間でも、菓子類は作ったことがない人も多い。作り方の感覚も異なる。 「それがねえ、あんまり機会がなくて。でも、明人が喜んでくれるなら」 「はあ……。親バカなのね」 「うふふ、正直ね。でも実際にその通りだから否定できないわ」 「ふうん。分かりやすいわね」 どの親もこれだけ分かり易ければ、自分の家や、吉村の家みたく問題が起きることもなかったのに。 それは、有沢の本音だった。 「家族なのね」 「ん?」 「なんでもないわ。それより、何を作るかも決まってないんでしょ。それなら、この間と同じクッキーでも作ってみる?」 「ええ、お願いするわ」 「先生なんて柄じゃあないから、そのあたりは勘弁してよね」 言いつつ袖をまくり、有沢は立ち上がった。 ◆ さわやかな風が吹き抜ける陽だまりの丘。 転がる猫たちの中心で、大きな猫が昼寝をしていた。 と、ぴくりと耳を動かし、猫は目を開く。 首だけ持ち上げ、周囲の風を嗅ぐように鼻を動かす。そこに何を感じたのか、猫は起き上がると、ぐっと背伸び、 「うにゃあ」 猫が声をかけると、丘にいた猫たちが一斉に振り向いた。 「にゃあう」 さらに一声。猫たちは起き上がり、めいめい、勝手な方向に散らばっていく。 一匹だけ残った大将は再び丸くなった。だが、今度は目を閉じない。 大きな猫は、何かを待っているようだった。だが、それが何であるのか、知っている人は誰もいない。 ただ、風だけが吹いていた。 |