クッキー作りは、タネとなる生地を作った後、それを休ませる時間がある。その方が整形しやすくなり、味もなじみやすい。
 作った生地を休ませている間は退屈だ。時間つぶしをどうするか考えていた有沢に、母親がなにやら引っ張り出してきた。
「せっかくだから、これ、見てみない?」
 それは、アルバムだった。大きく分厚いアルバムを開くと、今より少し幼い笹森明人が映っていた。これは中学時代だろうか。
「母さん……」
「あら、いいじゃない」
 彼の声は珍しく不満を含んでいた。彼も、昔の写真を見られることは恥ずかしいのだろうか。その様が面白くて、有沢はアルバムのページをめくっていく。
「へえ、あんた、中学の写真とか割とあるのね」
「ん、まあ。母さんがよく撮ろうとするから」
「何を言ってるの。大人になったら、昔の写真がありがたくなるわ」
「ふうん?」
 今の笹森しか知らない有沢からすれば、学ラン姿の彼というのは、なかなか新鮮だ。友人らしき人物が映っている写真もある。
 新しい写真から見ているので、進むにつれて古い写真が出てくる。だんだん幼くなっていく笹森。今現在のような雰囲気も少しはあるが、やはり全体的に幼く、今ほど老人的でもない。
「あんた、この頃の方がマシだったんじゃないの」
「それってどういう意味?」
「今よりは人間的な魅力があったってことよ。ん?」
 小学生か、中学に入ったばかりか。その頃の写真に、変わったものを見つけた。
「あ」
「これ、誰? 笹……、明人」
「えっと、その、兄さん」
「兄貴?」
 じっくり見る。
 その写真には、二人の少年が映り込んでいた。
 片方はおとなしそうな少年。おそらくは、こちらが明人だろう。
 そして、その隣。肩を組んでいる少年は活発そうで、非常にやんちゃな印象を受ける。カメラに向かって明るい笑顔を浮かべており、顔のあちこちに絆創膏を張っていた。
「そっくりね」
 写真に映っている二人。態度や表情には違いがあれど、顔つきはほとんど差異がない。背丈も同じくらいで、どちらも小中学生としては、少し大きめだ。
「そういえば、今日はその兄貴は?」
「ん、いない」
「そうなの」
「死んだの」
 割り込む声に、有沢は振り向いた。
「上の子は死んだわ。13歳で、事故で」
「母さん、そんなこと言わなくても」
「隠してどうするの? それに、あの子はもういない。それだけのことでしょ?」
「え?」
 違和感があった。
 見れば、母親の視線は笑っていない。内容が内容だけに和やかな雰囲気とはいかないかもしれないが、有沢は、それだけとも思えなかった。
 この母親、下の子供あきと相手には、過剰なほどの愛情を注いでいる。なのに、すでに死んでいるという兄に対しては、何故だか異様に冷たく感じるのだ。まるで以前、有沢の目から見ていた父親のような――。
「あ、有沢さん、そろそろ冷蔵庫から生地を出してもいいんじゃないかな」
「え、あ、そ、そうね」
「あら。それじゃあ出しましょうか」
 パッと表情を変え、母親は冷蔵庫に向かう。その後ろ姿を見ながら、有沢は小さな声で言った。
「ごめん」
「ううん、別に。その話は後でね」
 早口で返す彼に、有沢は頷き返す。
「あら、内緒話?」
「そんなんじゃないよ。アルバム、片付けるね」
 アルバムをどかし、クッキー生地をテーブルに乗せる。
 作業をしながら、有沢の頭は、別のことを考えていた。

 ◆

 クッキーを焼くのにはさほど失敗しなかった。上々の出来と言えるだろう。
 戦利品を手に、有沢たちは部屋に引っ込む。笹森の部屋は、やはりと言うべきか、本棚が部屋の大半を埋め尽くしていた。
「じゃ、さっきの話、続きをしようか」
「嫌な話なら無理にしなくていいわよ」
「ううん」
 笹森は首を横に振り、
「有沢さんには、知っておいて欲しいな」
「ふうん。じゃ、話しなさい」
「ふふ、わかってるよ」
 笹森が取り出して来たのは、先程のアルバム。古い写真のページを開くと、何枚かは兄の写真もあった。弟と顔はそっくりだが、兄はどこかしらに絆創膏を張っているからわかりやすい。
「兄さんの名前は流人。さっきも言ったけど、僕の双子の兄だよ」
「確かにそっくりだわ」
「うん。兄さんは元気すぎる人というか、活発な人でね。しょっちゅう母さんに叱られていたよ」
 笹森は昔を懐かしむように目を細める。
「近所の友達を泣かしたっていっては叱られて、服を破いたっていっては叱られて。僕は、そんな兄さんを眺めているだけだった。でも、楽しかったよ」
「それで?」
「僕らが13歳の時。あっけなかった。あんなに元気だった兄さんが死ぬなんて、考えたこともなかったよ」
「そりゃ、そうでしょうね」
「その時、僕と兄さんは、秘密基地みたいなところに行くところだったんだ。あんまり広くない一車線の道路だけど、ガードレールとかはあったし、それほど車の通行もないから、怖くはなかった。だけど、その時に限ってトラックが来て、しかも運転を誤って……、兄さんはトラックに潰された。即死だった」
「そう……」
 なんと言えばいいのか、わからなかった。だから、有沢は何も言わなかった。
「母さんは、もともと兄さんと折り合いが悪かった。兄さんのことを嫌っていたって表現してもいい。そのくらい、兄さんと母さんは仲が悪くてね。今でも、兄さんに対しては、あんな態度しかとらない」
「――笹森」
「大丈夫。母さん、普段は、ぽやぽやした人だし。アルバムでも見ない限り、兄さんの話が話題にのぼることもないしね」
「あんた……」
 何かを言おうとして、有沢は首を振る。
 彼女に言えることは、何もなかった。かたや生きた人。かたや死んだ人。
 死人の評価を覆すのは何よりも難しい。死人は思い出の中にしかなく、新たな一面を見つけることも、成長することもない。
「母さんが兄さんを認めてくれないのは少し悲しいけど、まあ、何を言っても、もういない人のことだから。仕方ないかな、って」
「……そういうもんなわけ?」
「僕は、そう思ってる」
 納得したわけではなかった。だが、有沢は、かけるべき言葉を見つけられなかった。
 つと、落とした視線の先、アルバムがある。写真の中で、笹森流人は笑っていた。
「……ん?」
「有沢さん?」
「ん、や、なんでもない」
 言いつつ、有沢の脳裏には見たばかりの光景が離れなかった。
 笹森流人の後ろ姿が映った写真。その首筋に、小さな傷跡があった。



 
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