そこは教室だった。室内には自分と笹森の姿しかない。なんとはなし、有沢は笹森の方を見る。
『……ん?』
 笹森の首のつけね、制服で見え隠れするような場所に、小さな古傷があるのが見えた。猫にでも引っかかれたのだろう、と思った。とぼけたところがある笹森ならば、ありうる話だから。
 そのまま見つめていると、唐突に彼が顔をあげた。視線が絡み合い、有沢は自ら視線をそらす。
 いつのことだったか。そう、まだ、彼と出会ったばかりの頃だ。
 その時は、そのくらいにしか思わなかった。その傷に、深い意味がある可能性なんて考えもしなかった。
 彼が、嘘をついている可能性なんて、もっと考えなかった。

 ◆

 目が覚めた有沢は、ベッドの上で体を起こす。時計を見ると、6時過ぎ。いつも朝早くに家を出る有沢からすれば、寝坊もいいところだ。体は変に重い。夢の余韻が体全体を支配しているようだった。
「……笹森」
 体をベッドから引きはがし、制服に着替える。
 その中でも、頭の中にあるのは、夢のこと。否、夢に見るまでもなく、その考えは頭から離れていない。
 笹森明人の首筋には傷がある。弟が兄と同じ場所に傷を持っていても何もおかしくはないが、引っ掛かるのだ。
 そんなことが現実問題としてありうるのか、そこまではなんとも言えないが。だが、その可能性だけは、ありうる。
 彼が本当は明人ではない・・・・・・・・・可能性が。
 もやもやした気分のまま、有沢は階下に降りる。と、バッタリと父親に出くわした。
「光子か、珍しく遅いのだな」
「別に」
 笹森のおかげで少しはわだかまりも減ったが、今までのぶんがゼロになったわけじゃない。顔を直視することができない。
 宗太郎は、すでにスーツを着ていた。もう出かけるところだったのだろうか。その割に、彼は娘の前から動こうとしなかった。
「その、光子。どうかしたのか」
「何が?」
「自慢にもならんが、私は普段のお前をよく知っているわけではない。だが、お前が寝坊したことなんてないだろう」
「まあ、そうね」
 ふと、苦笑が浮かんだ。そのくらい気にかかっていたのだろう。
 それなら、自分から動くべきか。
「……。ねえ」
 正直、今でも確証が持てない。だから、証拠となるようなものが欲しかった。
 そして、目の前に立つ父親には、それを手にできるかもしれない。
「あんた、病院にコネとかある?」
「それを聞いてどうするつもりだ」
「知りたいことがあるのよ」
「それは自分が傷ついてでも知りたいことなのか」
 思わず押し黙る。
「何について知りたいのかわからんが、どうせ他人様の事情に首を突っ込もうというのだろう。だいたい他人が隠そうとしていることなど、知ってよいものではない。お前はそれでも知りたいと言うつもりか?」
「正論、ね」
「知るべきではないことを知って、傷つくのは双方だ。見て見ぬふりをすることを、お前も少しは覚えるべきだろう」
「でも、そうやって生きて、あんたは失敗したんでしょう」
 ぐ、と言葉を詰まらせたのは、宗太郎の方だった。
「あたしは、それでも知りたいわ。自分がどんだけ傷つくことになっても、知らないままであやふやな気分に浸りたくない。間違っていたら、後でごめんなさいって謝るわ」
「手遅れになるかもしれないんだぞ」
「なってから考える」
「――。誰に似たんだかな」
 はあ、とため息を漏らす宗太郎。
「それで。何を知りたいんだ」
「協力してくれるわけ?」
「またぞろ娘と“いさかい”の種を作りたくもないからな。それに、お前は私が頼れないのであれば、他の人間に助力を仰ぐのだろう」
「よくわかってんじゃない。まったく見てもいなかったくせにね」
「そういうところは母さんにそっくりだからな」
「ふん。そんで、知りたいことだけどね」
 一息。自分の中で言葉をまとめ、吐きだす。
「3、4年前の死亡診断書よ」

 ◆

 笹森は、自室で本を開いていた。
 時刻は夜半。住宅街には、遠く、犬が吠える声が聞こえるくらい。雑音の少ない中で、笹森はじっ、と一冊の古い本を眺めていた。かといって、その本を夢中になって読んでいるわけではない。
 本の合間には、一枚の写真が挟まっていた。彼は、その写真を眺めていた。
「なんで、死ななきゃいけなかったんだろうな」
 写真に映る一人の少年。気弱な笑みを浮かべ、常に兄の後ろに隠れていたような少年。優しく、本と猫が好きだった少年。
 なぜ、彼が死なねばならなかったのか。その問いかけに意味はないと知っていても、問いかけずにはいられない。後悔にも似た、別の感情が胸の奥からせり上がって来る。
「明人」
 生き残った兄は、弟の名前を呼ぶ。
 ふと、『明人』は顔を上げた。
「明人、まだ起きているか」
 部屋の外から父の声がした。返事をし、扉を開けると、父の困った顔がのぞいた。
「母さんが、怖がっているんだ。遅くに悪いんだが……、少しだけでいい、慰めてやってくれないか」
「うん、わかった。ちょっと待っていて」
 笹森は手に持っていた本を棚に戻すと、父と共に寝室に向かった。
 両親の寝室は和室だ。布団が敷かれ、その上に、母が座り込んでいた。枕元の明かりだけが点灯しており、部屋の中は薄暗い。
「明人、明人は……どこ?」
 息子を呼び求める声に、笹森は答える。
「ここだよ、母さん」
 そっと寄り添い、背中をさする。母の目が息子に向く。
「あ、ああ、明人? 明人なのね?」
「そうだよ」
「ああ、ごめんなさい、私ったら何を勘違いしていたのかしら。きっと悪い夢でも見ていたのね」
「うん、そうだね。きっと、悪い夢だ」
「ねえ、明人。明人は幸せよね? 幸せになってくれるのよね?」
「もちろんだよ。僕は今、とても幸せだし、これからもそうなるように努力している」
「ああ、明人、やっぱり私の、自慢の息子だわ」
 母親の手が息子の頬に触れる。笹森はその手をそっと握り返し、
「ありがとう、母さん」
 そう、呟くように言った。
 かたわらで眺めていた父親は気付いていた。息子が、母の目を見ていないこと。
 それでも、父は何も言えなかった。



 
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