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有沢光子は、一度だけ通った道を、少し迷いながらも歩いていく。 肩にかけた薄っぺらい鞄には、一通の封筒が入っている。父から渡されたものだ。 自分がこれからしようとしていること。その意味を考えると、足取りは自然に重くなる。 それは、決して褒められる行為ではないのだ。 事件の調査をしていた時は、手段が正しくなくとも、目的そのものは間違っていなかった。彼女自身がやらなくても、いずれ、誰かがやろうとしたかもしれない。いずれにせよ、言葉にできる『正義』が、あの時にはあった。 だが、これから彼女がしようとしていることは、本当にただのおせっかいだ。彼女個人が納得するための自己満足、エゴでしかない。彼女だってそれは理解している。そして、それを笹森が望まないであろうことも。 けれど、足を止めることはしなかった。自分の意思で、彼女は笹森家を目指している。そうしなければならないと、そう思ったから。 笹森家は、数日前となんら変わらない様子だった。チャイムを鳴らすと、母親の声が聞こえる。 「有沢よ」 『あら。明人はまだ帰ってないんだけど』 「あいつじゃなくて、あなたに用事が」 『そうなの? じゃあ、入って』 玄関までの階段が厳しいものに感じる。 段差を越え、扉を開けば、母親の暢気な顔がのぞいた。 「こんにちは、有沢ちゃん」 「……こんにちは」 「明人に今日はどうしたのかしら? 私に用事って。きゃ、まさか息子さんを下さい? それならいつでもオッケーよ」 「もう少し込み入った話よ」 「んー?」 有沢の表情に何かを感じ取ったのだろう、それ以上は茶化さず、母は有沢を台所まで案内した。 「少し散らかっているけど」 言うほど汚れてはいない。むしろ、片付きすぎているくらいだ。テーブルの上には汚れのひとつもない。先日は気付かなかったが、部屋全体も綺麗だ。掃除が行き届いているというよりは、行き過ぎている。 「コーヒーでも淹れるわね。本職さんに出すのもアレなんだけど」 「お構いなく」 見ていると、ちゃんと豆を挽いてコーヒーを淹れていた。なるほど、これならば先日のコーヒーがきちんと本物の香りを出していたことも頷ける。さすがに専門店ではないのでペーパーフィルターだが、豆を挽いたのとインスタントで淹れたのでは、味も香りもまったく異なる。 「明人、コーヒーが好きなんだって?」 「そうなの。昔、本で読んだ主人公に憧れたらしくって。それ以来、ずっとなのよ」 「あいつはウチの店ではミルクティーしか頼まないわ」 「――そうなの?」 黒い液体が有沢の前に置かれる。芳醇な香り。少しだけ頭をすっきりさせたくて、口に含んでみた。苦味が、有沢の頭に染み渡る。 「初めて来店した時に言ったのよ。ウチの自慢はコーヒーなんだけど、って。だけど、明人はわざわざミルクティーを頼んできたわ」 「家ではコーヒーしか飲まないから、外では違うものが飲んでみたくなったのかもしれないわね」 母親は笑みを崩さない。会話の真意を、彼女は気付いているのだろうか。 「笹森がいつも読んでいる本、知ってる?」 「さあ。いつも違う本を読んでいると思ったけど」 「中身はあたしも詳しくないけど、古い本よ。紙質が変化しているくらいには。それに、あいつが使っているブックカバー。すり切れているわ。あれも相当の年季が入っているのね」 「きっと気に入っているのね」 「ブックカバーだけならそうかもしれないわ。でも、中身は? あいつほど本を読む人間が新本の一冊も読んでいないなんて、かなり不自然よ」 思い返せば、片鱗はいくつもあった。ただ、それら単体では、そこにひそむ深い意味まで読み取りようがなかった。 今ならば全てわかる。それらの意味。 「不自然って……。なら、どうしてあの子は古い本ばかり読んでいるの? 何か理由があって?」 「あいつは本なんか読んじゃいないんだわ。ストーリーもキャラクターも興味がない。だから、古い本だろうと何だろうと、何度でも読むんだわ。何を読んでも同じだから」 「あら。あの子は昔から本が好きだったのよ?」 「“本当”に?」 「嘘を言っても、仕方ないでしょう?」 「……」 有沢は鞄を開くと、中から封筒を取り出した。 A4サイズの茶封筒をテーブルに置く。封筒そのものには何も書かれていない。 「何かしら」 「証拠よ」 学内の暴力事件とは違う。この件には明確な証拠がある。 「あたしが何より疑問に思ったのは、アルバムの写真よ」 「写真?」 「明人の首、見たことがある?」 「よく覚えていないわ」 「ここ」 有沢は自分の首筋を触り、 「傷があるわ。古い傷。猫にでも引っ掻かれたみたいなのがね」 「そうね、あったかもしれないわ。それが?」 「けど、写真の『明人』は、首に傷がなかったの」 「なら、写真を撮った後に怪我をしたのね」 「傷がないってだけなら、あたしもそう思ったでしょうね。けど、同じところに傷がある人も、写真には映っていたのよ」 「あら、不思議ね」 「あんた、本当はわかっているのね」 「何をかしら」 笑顔が崩れない。不自然なほどに。 有沢の真剣な表情を見て、なお笑顔を崩さないでいられるのは、まっとうな神経ではない。 「現実を見るべきだわ。亡霊の影を追いかけたって幸せにはなれない」 「何を言っているの?」 「……本気で言ってるわけ?」 有沢は封筒の中から一枚のコピー用紙を取り出した。 それは、死亡診断書の写しだった。死因や死んだ時の状況などを記載する欄がある。その一番上には、死んだ人物の名前も記載されている。 『笹森 明人』の名前が。 「明人は死んでいるわ。もう何年も前に」 「いいえ、死んでなどいないわ。よくできているわね、それ。でも、そういう遊びをするのはよくないと思うわ」 「これが偽物だって言うわけ?」 「だってそうでしょう? 明人は生きているわ」 有沢はふと気付く。視線がおかしい。目の前に座っているのに、向かいの彼女は、有沢のことなど見てもいない。 「生きているわ。明人が死ぬはずないでしょう。だってそうでしょう? なんで、私の明人が死ぬはずがないわ、私の明人が! 私より先に死ぬなんて!」 ガタンと椅子を蹴り飛ばし、立ち上がる。母の目は誰も見てなどいなかった。 「なんで明人が死ななければいけないのよ!? あんなにいい子だったのに! なんで流人が生き残るのよ!! 流人が死ねばよかったのに!!」 「あんた……、自分が何を言っているか、わかっているわけ!?」 「なによ! 親でもないあんたにわかる!? 親は子供を選べないのよ! 私は明人がよかった! 流人なんかいらなかった! そうよ、さっさと殺しておけば明人が生き残ったかもしれないのに!!」 「ふざけんな!!」 ――パンッ! 乾いた音が響く。考えなどない、反射だった。 「親に見放されたら、子供はどうやって生きていけばいいのよ。子供の小さな世界は、親が用意したものが全てなのよ」 対する彼女は何も言わなかった。ただ、うたれた頬を押さえるだけ。 「人様の家庭に口を出すなんて、差し出がましいってレベルじゃないけどね。言わせてもらうわ。 あんたが愛してなくても、どれだけ嫌っていても、あいつはあんたを愛している。だから、明人のフリなんてしているんだわ。あんたを傷つけないためだけに。それが、そうさせていることが、どれだけあいつの気持ちを踏みにじる行為だか考えないの?」 「……」 黙したまま、母は何も語らなかった。有沢は諦めたように息を吐く。なんだか、どっと疲れた。 いたたまれなくなって、廊下に出る。そこで、ふと気がついた。 「ッ!」 廊下に青い鞄が落ちていた。じっくり見るまでもない。聖月の学校指定鞄。 『明人』の持ち物だ。 |