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走って、走って。 鈍重な体型をしていても、やはり猫は猫だった。大将の体は大きいが、動きは俊敏。たまに待つように止まってくれるが、人間の有沢は付いて行くので精一杯だ。まわりを見る余裕さえない。 ひたすら走り続け、どこをどう通ったのかもわからない。有沢はいつの間にやら、見知らぬ住宅街に足を踏み入れていた。 その中、とある建物の前で、大将はようよう足を止めてくれた。 「は、はや、はやすぎ……」 息を整え、建物を見上げる。 工事中の建物だ。足場が組んであり、灰色の布がかけられている。門は閉まっており、改装工事中、の文字が見て取れた。 「どこよ、ここ」 「にゃあ」 見れば、大将は看板らしきものの上に乗っかっていた。そこには、教会、とある。 「教会? なんでこんなところに」 「にゃう」 「あ、ちょっと」 答えることなく、大将は教会の敷地内に入り込んでしまった。少し迷ったが、有沢は門を押してみる。やはりというか、施錠されていた。 周囲に誰もいないことを確認してから、有沢は門をよじ登ると、敷地に侵入した。 今日は工事をしていないのだろう。作業員らしき人間の姿は見えない。そのまま、何かに導かれるように、有沢は教会の中に入った。 横長の椅子がいくつも並んでいる。まっすぐ続く赤いじゅうたん。正面には壇があり、その上には、白い十字架とステンドグラスがあった。内装工事も同時に行っているのか、こちらにも足場が組んである。 けれど、有沢の目には、そんなものなど映らなかった。そこにいた、たった一人の人物に、目が釘付けとなっていた。 「笹森――」 探し求めた人物は、そこにいた。 ステンドグラスの目の前、足場板の上。十字架の下で、彼の姿はうっすら輝いて見えた。 「笹森、あんた、こんなとこにいたのね」 「……」 ゆっくりと、彼の顔がこちらに向く。そして、ほんのり笑みを浮かべた。 「ようこそ、有沢さん。よくここがわかったね」 「大将が教えてくれたわ」 「そうなの? 大将にもここは教えていなかったんだけどね。匂いか何かでわかったのかな?」 足をぶらぶらさせながら、笹森はこちらを見ている。 有沢は気付いていた。彼の瞳、そこに色がないことに。彼は有沢を見ている。だが、その目は世界をとらえていない。 目が死んでいるのだ。 「笹森。みんな探しているわよ」 「うん。そうかもしれないね」 「帰ろう、笹森」 「僕が? 何のために」 「あんたを必要とする人間がいるからよ!」 「誰が僕を必要としている?」 「……ッ」 駄目なのだ。瞬間的に、そう感じた。 彼が欲しているのは、飢えているのは、母親の愛情だ。いくら有沢光子という人間が彼を許容したところで、彼が本当の意味で必要としているものは手に入らない。だから、渇きも癒えない。 そして、彼が必要としているそれは、有沢にはあげられないものだ。 「そう、ね」 どうすればいいのか。どうすれば、彼の絶望を貫き、言葉を届けられるのか。 「うにゃあ」 ふと見れば、足元に大将がいた。そのまなざしは、何かを訴えかけるようで。 「大将?」 猫は言葉を返さない。しかし、視線をそらすこともしなかった。 お前は答えを知っていると、その目が語っているように思えた。 「……」 刹那、思考を巡らす。今までの思い出。自分が手にしてきたもの。長くはない人生の中で得た経験。 時間にすれば、一秒にも満たない。ほんの一瞬のひらめき。その中に、有沢は光明を見出した。 「笹森。質問に答えてくれる?」 「何かな」 「あんたは、あたしを愛してくれる?」 ほんの少しだけ、笹森の目が細くなった。いつもの笹森明人ならば、すぐに是の答えを返すか、はぐらかすかしただろう。そうしない彼。あの姿こそが、あるいは、本当の笹森なのかもしれない。 「どういうこと?」 「あたしが求めている答えはイエスかノーよ」 「ノー」 「嘘」 口元が緩んだ。そんな余裕が、有沢の中に生まれていた。 「『愛することの対極にあるのは存在を認めてもらえないことです』。あんたが黒木に言ったのよね」 それは、笹森自身のことだった。 あの時には、気付かなかったけれど。 「あんたは、あたしという存在を認めてくれたわ。教室でひとりでいた、まわりからも恐れられて、誰一人として話しかけようとしないあたしを、陽だまりの丘まで連れて行った。 言葉をかけること、相手の目を見ること、それは全てのスタート地点よ。相手を認めるという行為のね」 「僕は、明人がやろうとしていたことを引き継いだだけだよ。あいつは、いつだって自分より他人の心配をしていたから」 「きっかけなんて聞いちゃいないわ。大事なのは行動、あんたが自分で選びとった道のほうよ」 「選びとった? 選ばされたようなものだよ。母さんをこれ以上、崩壊させないためには、僕が犠牲になるしかなかった。流人を殺し、明人として生きる他に、母さんの精神を保つ方法はなかったんだ」 「母親の前で演じる必要はあったかもしれない。でも、学校や、喫茶店でまで演じる必要はなかったはずよ。現に、あんたはリアンでミルクティーを頼んでいた。明人はコーヒーが好きだったのにね」 「……」 「明人らしくふるまう、そのきっかけは、不幸なものがあったのかもしれない。だけど、あんたの生き方を選んだのは、あたしを愛してくれたのは、あんた自身だわ」 「愛する、なんて、ほどのことじゃ……、ないよ」 「相手に感情を向けること。全ての始まりよ」 知らぬ相手に愛は注がれない。世界の裏側に住む人が死んでも何も思わないのは、そもそも相手が存在していることを知らないからだ。何の感情も向いていない相手には、好きも嫌いもない。 それが、孤独ということ。誰からも感情を向けられていない、存在を認めてもらえないこと。 嫌い、という感情でさえ、人の心を満たそうとする。だが、何の感情もなければ、心を満たしうるものは何もない。からっぽの心を抱え、飢え、心が死んでいく。 そうさせないための唯一の方法を、笹森明人は実践していた。たとえそれが自分のトラウマに由来する行動だったとしても、偽善に過ぎなかったとしても、行動があれば意味も生じる。 「あたしは、あんたが差し伸べてくれた手のおかげで、バカ親父と和解するだけの心を手に入れたわ。あたしの心を満たしてくれたのは、あんたがくれた愛情よ」 手を伸ばす。足場の上にいる笹森に、手が届くはずはない。だけど。 「あたしはあんたの母親じゃない。あんたが欲する、母の愛はあげられないわ。それは、本人から貰いなさい。そのために必要な原動力くらいは、あたしがあげるわ」 きっと、こころは届くから。 「一緒に帰ろう。誰が必要としなくとも、あたしにあんたが必要なのよ」 「ぁ……」 小さな声。意味もない音に過ぎなかったが、それは笹森の中に生じた、小さな変化のきしみだ。 「あり、さ……」 「ッ!!」 笹森明人の体が沈みこんだ。 |