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「まったく……、なんだってのよ、あいつ」 有沢は不機嫌面で帰路を歩いていた。 もっとも、彼女の機嫌がよかったためしはない。ましてや、帰宅しようとしている彼女がご機嫌であることなど、あるはずもない。 時刻はすでに夜半。日はとっくの昔に西の向こう側まで沈んでしまっている。歩く人の姿もない。稀に見かけられるのは、酔客か、仕事に疲れたサラリーマンか。 やがて、有沢は住宅街に足を踏み入れた。 静かな住宅街。その静けさは、夜も深い時間である、というだけでなく、家々の広いスペースや、そこに住まう人たちの気質にも起因している。 ありていに言ってしまえば、高級住宅街。一軒の家が持つスペースは無駄と思えるほどに広く、それだけの家を所有できる住人たちもまた、充分に資産的な余裕を持っている人たち。 それだけに、この住宅街は、不自然なほどに静かだった。普通の街に響くような、赤ん坊の泣き声や酔人の叫び、バイクの走行音といった、生活的な騒音が一切ない。その環境を良いというのか悪いというのか、それは人それぞれだろう。 だが、少なくとも、彼女にとって、この街は今すぐにでも破壊してしまいたくなるものだった。 「……人間の住むところじゃない」 ぽつりと、口から言葉が漏れる。 これほど人間のために作られた家々もない。それを評して、有沢は『人間の住むところではない』と言う。 彼女からすれば、陽だまりの丘は、こんな家よりもよほど住居に適した場所だった。 だが、さすがにあんな場所で一夜を過ごすわけにもいかない。彼女とて、まだうら若い少女なのだ。 「ふん……」 有沢光子は、とある家の前で足を止める。 豪奢の家が多いこの街においては、ことさら目立つ外見。大きさは特別に大きいわけでもないが、要所に備え付けられた意匠は、名のある職人でなければ施せない造形をなしている。 はっきり言ってしまうなら、飛びぬけて高級な家だ。とても有沢が用事を持つようには見えない家でもある。 有沢はためらいなく門扉を押した。鍵はかかっていなかった。 そのまま玄関扉を押し開く。こちらも、鍵はかかっていない。 「お帰りなさい、光子さん」 出迎えたのは、30前後とおぼしき女性。とりたてて美人ということもなく、髪留めで縛った黒髪は、あまり丁寧な手入れをした気配がない。全体的に、どこか疲れた雰囲気のある、陰気な女性だった。 有沢はそんな彼女をひとにらみ、 「名前で呼ぶな」 「承知してます、光子さん」 「あんたもたいがいね」 毎度のことだ。いまさら、有沢も何も言うことはない。 そのまま、有沢は二階の自室へ。彼女を出迎えた女性は、それを見送るだけで、付いて行くことはしなかった。 有沢は自室に入る。部屋には備え付けのユニットバスがあり、勉強机やタンスなども置かれている。 だが、逆に言うならそれだけだった。机の上に乗っているのは中学生向けの参考書。それも、埃をかぶっていて、何年も触れていないのがよくわかる。女の子の部屋にありそうな、ぬいぐるみなども一切ない。 簡潔に言ってしまえば、生活感がない。何年も前に部屋の主は死んでしまったような感覚。そうでない証拠は、丸まった毛布が乗ったベッドだけだった。 「……」 有沢は手早く制服を脱ぎ捨てると、そのままシャワーを浴びた。カラスの行水よりも早く済ませてしまうと、ドライヤーで簡単に髪を乾かし、下着だけを身に着けてベッドに横になる。 時計は、すでに翌日の日付を指していた。 ◆ 次の日。有沢光子はいつにも増して殺気だった雰囲気をまとったまま、歩いていた。 彼女がご機嫌だったためしはないが、それにしても今日の不機嫌具合はひどい。話しかけたらその場で殺されそうな雰囲気さえあった。 ――前日と大差ないかもしれない。 昨日、帰路についてからずっと、彼女は不機嫌をぶらさげていた。それもこれも、すべて転校生に原因があるのはいうまでもない。彼女と笹森明人は、決定的なほど“そり”が合わなかった。 「だいたい、なんでこのあたしが、あんなのに付き合わなきゃいけないわけ?」 自分でついていったはずなのに、彼女自身はそんなことなど忘れたかのような態度でのしのしと歩く。その、あまりといえばあまりの態度に、常日頃に輪をかけて人が寄ってこない。 そんな調子で彼女が教室に入ると、 「あ、おはよう、有沢さん」 「笹森……!」 見たくもない顔が普通に隣席に鎮座していた。 彼女は時計に目を向けた。時刻はまだ7時半。部活動も始まっていないこの時期、普通の生徒が登校するには早すぎる時間だ。 「あんた、なんでもう来てんの」 「早起きなもんで」 「だったら、あの猫んとこにでもいってればいいでしょうが。学校に来んな」 「大将たち、朝方にはいないんだ」 「だったら家でゆっくりしていればいいじゃないの」 「あ、大将といえば。僕さ、今日の放課後、先生に呼ばれているんだ。だから、今日は行けないって大将に伝えてくれないかな?」 「なんであたしが今日も行くこと前提なわけ!」 「行ったらでいいよ」 はぁ、と有沢は深いため息をつく。どうにも、この少年と向き合っているとペースを乱される。彼女にはそれが気に食わない。 「ともかく、もう二度と話しかけないで。次に話しかけたらバラバラにして猫の餌にしてやるから」 「困ったな、僕を食べると猫たちが太っちゃうんだけど」 「……」 本当に人間の言葉が理解できているのだろうか。 有沢は腹の底でそう思う。これなら、昨日の猫たちのほうがよほど人間の言葉を理解していたような気がする。 これ以上、相手をするのをあきらめ、有沢は自分の席についた。 特にすることもなく、自然、隣の席に座る変人に目を向けてしまう。 彼は昨日のように文庫本を読んでいた。古びた革製のブックカバーは、昨日も見た記憶がある。 有沢は本を読まない。だから、彼が何を楽しみにそんなものを読んでいるのか、いまいち理解できない。 少し視線を持ち上げると、そこに笹森の能天気な顔がある。女のような顔立ちだ、と素直にそう思う。化粧を施せば、それなりには見えるんじゃなかろうか。 そんな、どうでもいいことを考えていた。 「……ん?」 ふと、笹森の首のつけね、制服で見え隠れするような場所に、小さな古傷があるのが見えた。猫にでも引っかかれたのだろうか。このぼけた男ならばありうる話だ。 じっ、と見ていると、唐突に彼が顔をあげた。 ばっちり、有沢と笹森の視線がかち合う。 「?」 「なんでもないわよ」 何をじっと見ているのだろう。自分で自分を恥じつつ、有沢は視線をそらした。笹森は口元をほころばせると、また視線を本に戻す。 微妙な空気は、三番目に登校してきた不幸な生徒が硬直するまで続いた。 |