放課後になると、笹森明人は今日も教師と共に出て行った。有沢はそんな彼を見送り、教室に残る。別に彼女は笹森の保護者でもなければ、そもそも友人でさえない。彼についていく義理もない。
 他の生徒も三々五々、散っていく。有沢はただ机に座り、時間を無為に過ごしているだけだ。
 時計の針は遅々として進まない。いつものことなのだが、今日は特別に進みが遅いような気さえしてくる。
「ったく」
 妙にイライラする。教室には誰もおらず、彼女をいらつかせるあの不愉快な男もいないのだが、それでもなんとはなしに落ち着かない。そして、そんな自分がなんとも言えず腹立たしい。
 説明しようのない気分のまま、有沢は時計をにらみつける。そんな彼女の視線におびえたように、時計はゆっくりと進んでいるようだ。
 それでもしばらく粘っていたが、とうとう彼女の限界が訪れた。
「ちっ」
 舌打ち混じりに立ち上がり、薄っぺらいかばんを手に、彼女は教室を出て行った。彼の言うとおりにするのは癪に障るが、確かにあの場所の居心地は悪くない。あの男がいないのであれば、猫を相手にたわむれるのも悪くはないだろう。
「別に、あんなのに従うわけじゃないけど」
 誰に言い訳しているのやら。自分でもわからぬまま、有沢は学校を出て、まっすぐ丘に向かう。
 道順を覚えているのは、やはり彼女の記憶力がいいからだろう。さして迷うこともなく、昨日のとおりの道を通って、彼女は陽だまりの丘に出た。
 そこには、昨日と何も変わらない光景が広がっていた。暖かそうな丘、寝転がる猫たち。そして、丘の中心にいるのは、やけにどでかい猫。
 大将はちらりと有沢を見る。なんとはなしに頭を下げると、尻尾をひとふり、
「うにゃあ」
 いつもの低い声で鳴いて、そのまま丸くなった。
「……なんで猫に気を使ってんだか」
 自分で自分に苦笑しつつ、有沢は丘のまんなかに移動した。
 そこからは、丘の全体がよく見渡せた。決して広くはないスペースだが、そこにいるのが猫だけなせいか、圧迫感はない。転がっている猫たちも自分たちで心地よい間隔を保っているように見える。
 楽園と呼ぶのはいささか大げさだが、そんな雰囲気がこの場所にはあった。
 そうして有沢が猫だらけの丘を見渡していると、
「ん」
 昨日のトラ猫がひょこひょこやってきた。今日も有沢を見上げ、
「うにゃ」
「何よ」
「うなーお」
 なんとなく、今日はこの猫がいいたいことがわかるような気がした。
「なでろ、っての?」
「なあ」
 猫はじっとこちらを見上げている。ためしに頭をなでてみた。すると、猫は素直にされるに任せている。
「気持ちいいわけ?」
「うにゃあ」
 猫の言葉は相変わらず理解できない。だが、なんとなくわかった気がした。
 ここの猫たちは、人間の発する気分のようなものを感じ取っているのではなかろうか。不機嫌そうに、とげとげしい気分を発すれば、猫はそれをたしなめに来る。丸い気分でいれば、猫も受け入れてくれる。
 それは正しいかもしれないし、間違いかもしれない。本当のところはよくわからないが、有沢はそれでいい気がした。
「まあ、そうね、ここは悪かないわ」
 あの男がいなければ、という条件付きではあるが。
「……ふん」
 ごろん、と横になる。
 草木は柔らかく、自分の体を包み込むようだった。隣で猫が丸くなる。
 それを眺めていると、だんだんとまぶたが重くなってきた。安らかな気分だった。
 逆らわず、目を閉じる。すぐさま意識は遠のいていった。
 その日、有沢光子は久しぶりに、ゆっくりと体を休めることができた。その様を見ていたのは、いっとう大きな猫だけである。

 ◆

「有沢さん、丘に行ったのかな……」
 笹森明人は一人、帰路についていた。
 教師に呼ばれている、というのは、実を言えば嘘だった。単に、有沢と別れるための口実が欲しかっただけである。
 陽だまりの丘。あの場所は、誰かと一緒に行ってもよいのだが、今の有沢を考えるなら、一度くらいは一人で行ったほうがいい。笹森は、そんなことを考えていた。
 人間、誰しも肩の力を抜く場所は必要だ。有沢にはそれがあるように見えなかった。だからこそ、陽だまりの丘を紹介したのだ。
 ただ、いじっぱりな彼女のことだ。ああいう風に勧めても、あるいは行かないかもしれない。それはそれでいい。そういう選択肢もあるのだ、ということを知れば、いずれはそれが役立つだろう。
 笹森は一軒家の前で足を止める。なんてことのない、少し細長いだけの、ごく普通の二階建て住宅。売家ではなく賃貸だし、広さもそう広いわけではないが、家族三人程度が住むには十分なレベルだ。
 笹森は自宅に入ると、中に声をかける。
「ただいま」
「おかえり」
 すぐさま台所から母が顔を覗かせた。まだ40歳くらいだろうが、髪の毛に白いものが混じっているせいか、年齢以上に年老いて見える。
「明人、今コーヒーいれるからね」
「うん、ありがとう」
 二階の自室に鞄を置くと、ダイニングキッチンに入る。すでに母親のいれたブラックコーヒーがテーブルの上に置かれていた。
 カップを手に取る。コーヒーの豊潤な香りが鼻をくすぐった。
「……」
 少し口に含む。強い苦味。それでいて、まろやかな感覚。
「ベトナムとブラジルコーヒーのブレンドなんだって。美味しい?」
「うん、おいしいよ」
 明人の向かいに母が座った。
「学校はどう? 新しい学校にはもう慣れた?」
「そうだね。優しい人ばかりだよ。友達もできたし」
「あら、さすが私の息子。でもねえ、引っ越したからって、なにも転校までさせなくてもいいのに。お父さんも強引なんだから」
 そう言って、母はため息をつく。
「でも、ここから前の学校に通うと、確かに遠いしさ」
「そうだけど、環境が変われば困ることもたくさんあるでしょ? お友達とも別れることになっちゃうんだし」
「それこそ、隣の町だもの。いつでも会いに行けるよ」
「授業の進度だって違うだろうし……」
「クラスメイトに聞いたけど、むしろ今の方が遅いくらいだから、授業に遅れるってことはないと思うよ」
「か、環境が変わることでストレスになったり!」
「息抜きの方法は知っているし、大丈夫だよ。心配しないで」
「……もう。本当に我が息子は優秀ね」
「どうも」
 コーヒーをすする息子を眺め、母は嬉しそうに頬を緩ませる。
「でも、お母さん、鼻が高いわ。明人ができる子で」
「そうかな?」
「ええ、そう。明人、あなたはずっと、私の明人でいてね」
「ずっとは無理かなぁ……」
「……もう。本当に我が子は女の人を喜ばせるのが下手なんだから」
「女の人、じゃないでしょ。お母さん」
「実際に下手でしょ、明人は」
「まあ……」
 答えに窮した笹森明人は押し黙る。
 コーヒーをすする音だけが室内に響いていた。



 
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