「……不覚だわ」
 今日も今日とて朝早くから、有沢光子は学校に続く道を歩いていた。
 朝日はまぶしく、空気は軽い。なんとなく走りだしたくなるような、そういうさわやかな雰囲気がある。散歩するにはちょうどいい日だろう。
 いつもの有沢なら、そんな空気の中でも、不機嫌まるだしで歩いていた。寝起きからしばらくは、だいたい機嫌が悪い。だが、どうしてだか、今日だけはそういう気分がない。実に軽やかなものだ。
 そして、その事実が彼女の気分を落ち込ませていたりもする。
「これじゃ、あいつのおかげって言っているようなもんじゃない」
 昨日、陽だまりの丘で居眠りをしてしまった。時間的にはたいしたものではなかったはずだが、随分とすっきりすることができた。
 それからというもの、いつものような不機嫌さが戻ってこない。あの丘に置き忘れてしまったような気分。
 それ自体は歓迎すべき事実なのだが、同時、それは笹森明人のおかげでそうなった、ということを表してもいた。
 だが、あの変わり者の隣人に感謝はしたくない。
「不覚だわ……」
 軽いのに重苦しい気分のまま、有沢は学校の敷地内に入る。
 校舎を見上げた。
 キリスト教を教えていようが何をしようが、校舎そのものは普通の学校と変わらない、鉄筋コンクリート製の味気ないものだ。だが、今日は素直に教室に向かう気がしなかった。ありていに言って、笹森の顔を見たくない。
 さらに敷地の奥側に視線を向ける。そちらにはチャペルがあり、あまり人はいない。
「チャペル……、は、静かすぎるか」
 生徒の出入りが禁止されているわけではないし、お祈りでもしていれば熱心な生徒に見えるかもしれないが、そんな風にご機嫌取りをしても仕方ない。
 となれば、他に朝から開いていて、かつ生徒が出入りできる教室以外の場所。
「図書室、くらいかな」
 この学校にある図書室は、校舎の最上階にある。そのせいか人の出入りはほぼなく、たまに図書委員が行くくらいなもの。授業開始時間まで、笹森をかわすにはちょうどいいかもしれない。体力的には疲れるが。
「やれやれ……。なんでこんな苦労をしなきゃいけないのよ」
 勝手にやっていることなのだが。
 ちんたらちんたら、階段をのぼりきると、すぐに図書室がある。
 蔵書量はさほど多くない。場所の問題もあり、大半の生徒は近くにある市民図書館を利用する。そのため、普段から利用者の少ないこの場所は、早朝ともなれば誰もいない。
 ――はずだった。
「〜〜〜〜〜〜!!」
「あ、有沢さん。おはよう」
 人間、何かを避けようとすれば裏目に出ることも多い。
 なかば予定調和のように、図書室の窓際には笹森明人の顔があった。
「あんた。こんな早くから、なんで図書室なんかに来てるのよ」
「うん? 有沢さんは朝が弱いみたいだし、僕がいない方がリラックスできるんじゃないかなって」
「いつ! どこで! あたしが朝弱いなんて言った!」
「違うの? なんだか眠そうな目をしていたけど」
「不機嫌なだけよ!!」
 こうも裏目に出ると、少しだけ泣きたくなる有沢であった。
「あの。図書室では静かにしてもらえると助かるんだけど」
「あ?」
 振り向けば、有沢の記憶にはない顔がそこにあった。
 小柄な生徒だ。顔つきもあいまって中学生くらいに見えるが、襟元の校章(学年によって色が違う)を見る限りでは二年生、すなわち有沢と同学年らしい。
「ふん。すぐ出て行くっての」
 わざわざ笹森を避けて図書室まで来たのだ。彼がここにいる以上、図書室にいる理由は何もない。
「そう」
 男子生徒は言うだけ言うと、カウンターの向こう側に腰をおろした。どうやら図書委員らしい。
「有沢さんは、なんでここに?」
「あんたを避けてんのよ」
 ストレートに言えば、少しは笹森も気を使うかもしれない。そういう考えがあった。
 だいたい、彼が図書室にいたのは、有沢に気を使ってのことなのだ。結果はサイアクになってしまったが、その心意気そのものを考えれば、悪い奴ではない。
「そういえば、昨日はあそこに行ったのかな」
「……うるさい」
 ほんの少し頬を赤らめ、有沢はそっぽを向く。
 あの場所は悪くないし、それを教えてくれた笹森には感謝してもいいのだが、そんな気分にはなれなかった。
「と、とにかく、あんたはここでゆっくりしてなさい。その方がお互いのためだし」
「そうかな?」
「そうなの! ったく」
 怒り肩で図書室を出て行こうとする有沢。その背中に、笹森は声をかける。
「有沢さん。よかったね」
 ぴたり、と彼女の足が止まった。振り向いた有沢は、先程までより頬の赤みが増していた。
「うるさい」

 ◆

 体育教師の赤岩は、職員室で探していた顔を見つけた。
「黒木先生」
「はい?」
 振り向いたのは初老の男性。小さくおびえたような目付き、丸まった背中などが、頼りなさを示している。
「今度、転校してきた笹森なんですが、『聖書学』は初めてなんだそうです。補習はしますか?」
 黒木は、学内で唯一『聖書学』を教えている教師だった。ミッションスクールとはいっても、キリシタンばかりが集うわけではない。それは教師も同じこと。さすがに聖書を開いたことがない、という教師はいないが、読み切ったことがない、という人はかなり多い。
 そのため、大学時代から聖書について学んできた黒木は、その外見とは裏腹に、この学校では貴重な存在だった。
「補習、ですか。そうですねぇ……」
 本来なら、簡単にでも補習はしておきたい。二年生である以上、一年生の時に学んだことは必要になる場合も多いだろう。
 とはいえ、黒木はたった一人のために補習を行うほど、時間的余裕がある教師でもなかった。だから、担任の赤岩も、わざわざ聞いたりしているのだ。
「主任や校長先生には?」
「黒木先生に時間の余裕があれば、という話ですが。まあ、受験科目というわけでもありませんからね。ウチもミッションスクールだけど、そこまで押しつけているわけじゃないし」
 そう言って、赤岩は肩をすくめる。たしかに、聖書学の単位を落としたところで、進級に影響するわけでもなければ、内申書に大きな影響があるわけでもない。それに、今後の人生において、必要になるシーンも少なかろう。
 だが、聖書から学べることも多い。そのための聖書学でもある。そして、どうせ教えるのなら、きちんと知った方がいい。
「まあ、落とす前提で受けさせるわけにもいかないでしょう。一応、時間の方は調整してみます。追って赤岩先生に連絡すればいいですかね」
「ええ、そうしていただけると助かります。すみません、お忙しいのに」
「いえ、これが仕事ですから」
 そこで黒木は少しだけ考え、
「それにしても、ウチに転校してくる生徒なんて珍しいですね。何年ぶりかな?」
「そうですね。別に進学校というわけでもありませんし」
 聖月学院は地元の生徒が多い。特別に優秀な生徒はほとんどおらず、偏差値で言えば50を少し切るくらい。どちらかといえば不出来。
 部活動もパッとしないし、隣町から転校してきた程度なら、元の学校にそのまま通う生徒の方が格段に多いのだ。
 そういう意味で、この学校に転校してきた笹森明人という生徒は、かなり珍しい部類に入るだろう。ましてや彼が通っていた学校は、この学校よりレベルが高い。少し通学に時間はかかるかもしれないが、向こうの学校に通った方が良い面がたくさんある。
「赤岩先生、そのあたりの事情は?」
「何も聞いてはいませんが、少し気にかけるようにしてみます」
「そうですね、その方がいいかもしれません」
 それだけの言葉を交わし、赤岩と黒木は別れた。



 
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