『リアン』の店内で、有沢光子はコップを磨いていた。
 客はいない。いつものことだ。これほど客が少なくて商売として成り立つのか、と思うのだが、バイト代の支払いが遅れたことはない。不思議なものだ。
「……納得いかない」
「何が?」
「ッ!?」
 いつの間にか、スツールに見知った顔があった。
「さ、笹森!? あんたどっから入ってきたの!」
「入口からだよ?」
「普通に入ってきといて、あたしが気付かないわけないだろうが!」
「そう言われても」
 笹森明人は肩をすくめる。
 なんというか、不思議な男だった。気配が薄い。
「あんた、幽霊かなんかなの……」
「ごく一般的な人間だよ。それで、何が納得いかないの?」
 有沢はため息ひとつ、
「昨日のアレよ、黒木の財布が盗られたって事件」
「犯人はわからないままだったね」
「それも不思議だけど、なにより犯人扱いされたことが気に入らない」
「それは有沢さんに限らないと思うんだけど」
「あたしが含まれることも気に入らない」
「普段の有沢さんを見ていたら、関係なくても呼びたくなると思うなぁ……」
「あんた、殺されたいの?」
「あ、僕はミルクティーね」
「はいはい」
 手を動かしながら、有沢は続ける。
「そりゃ、あたしの素行は良いとは言えないけどね」
「なら、仕方ないんじゃないかな」
「だからって無実の罪を追及されたら、誰だって気分は悪いもんでしょうが」
 電気ケトルのお湯が沸いたところで、その湯をカップに注ぐ。
「でも、バ会長も図書委員も、財布は持ってなかったのよね」
「神山君と吉村君だね。手荷物検査をしたんだから間違いない。でも、中身だけを抜いていたら、手荷物検査をしてもわからないよね」
「……あるいは、あのメンバーには犯人がいないか、ね」
 ポットの湯を捨て、そこに鍋で沸かした湯を注いだ。
「赤岩は強盗って言った。黒木は頭に包帯を巻いていたし、たぶん何かで殴られて、その隙に財布を盗まれたのよね。そうなると、犯人はどっかで凶器を捨てて、しかも学校の中をうろちょろしていたことになる」
「そうなるね」
「おかしいでしょ? 立派な犯罪よ、これ。そんなことをしておいて、まだ現場の近くをうろうろするなんて」
「たしかに、普通は現場から離れようとするかもしれないね」
 ポットからミルクティーを注ぐ。よい香りが漂い始めた。
「そういう不自然があるってことは、逆に言えば、あの場にいた連中の中に犯人はいなかった。だから荷物検査をしても何も出なかったし、そもそも犯人はすぐさま逃げていたんだから、呼び出しになんか応じるはずもない。推理としちゃあ、まあ上出来でしょ?」
 笹森の前にティーカップを置きながら、有沢は締めくくった。
 彼は静かに紅茶を傾けながら、
「反論してもいい?」
「できるもんならしてみなさい」
「あの時間、部活動はとっくに終わっていて、大半の生徒はいなかったんだよね」
「まあ、そうね」
 有沢は思い出す。そういえば、放送が入った時間は、校庭から聞こえる騒がしい声が途絶えた時間だった。だから放送がはっきりと聞き取れたのだ。
「そんな中、普通に歩いているだけでも目立つんじゃないかな」
「たまたま誰も見てなかっただけじゃないの」
「チャペルにいた黒木先生を襲って、校門から出ようとすれば、嫌でも校舎の間近を通ることになる。つまり、職員室の間近だよ。先生は一人や二人じゃなかっただろうし、誰にも見られないって、相当にラッキーだったんだね。その犯人は」
「……」
「校門以外から出ようとすれば、余計に目立つよね。まだ校門が開いている時間なんだから」
 たしかに、やましいことをした人間ならば、人の目につくような場所を通りたがらないのは自然かもしれない。ましてや、職員室から見える場所は、絶対に通りたくないだろう。
「じゃあ、まさか、あんたはあの中に犯人がいた、って言うわけ?」
 思い返す。まさかこのボケが犯人ということはないだろう。
 ということは、神山か、吉村という図書委員の生徒が犯人ということになる。
「そうとは断定できないけどね。誰の目にも触れないところに隠れていただけかもしれない。あるいは、本当に運よく誰にも見つからないまま、チャペルから校門を出て、そのまま家に帰ったのかもしれない」
「だけど、可能性だけはある、ってわけね」
「そういうこと」
 有沢はパチパチとまばたき。
「あんた、サラッと推理できんのね。いつも読んでいる本ってそういうものなわけ?」
「そういうのも読むし、そうじゃないのも読むよ。なんでも読む」
「ふうん?」
「有沢さんは? 本は読まないの?」
「なんであたしが。顔を見れば本なんか読まないのはわかるでしょ」
「じゃあ、僕の本を貸そうか?」
「なんでそういう話になるかな。だから、読まないって言ってるのよ」
 はあ、と有沢はため息ひとつ。
「あんたがボケてんのは今に始まったことじゃないからいいけどね。それより、その犯人ってのが気になるわ」
「それは、自分が犯人扱いされたから?」
「それもあるけど」
「それも、ってことは、他の理由もあるんだ」
 そこで、有沢は少し黙り込んだ。笹森は無言。しばし迷ったように、けれど、有沢は続きを口にする。
「気に入らないのよ。聖月って、かなり大人しい生徒が多いの。あたしなんかが目立つくらいには」
 有沢は、派手な外見と不遜な態度のせいで勘違いされがちだが、実際に何か問題行動を起こすことは少ない。カツアゲしているわけでも暴行事件を起こしているわけでもないし、煙草や酒をやっているわけでもなく。具体的な非行を、何もしてはいないのだ。
 そんな有沢でさえ、不良のレッテルを張られる。そのくらい、大人しい人間が多いのだ。それは、聖月に限った話ではなく、この街全体がそういう雰囲気を持っている。
 有沢は苛立たしげに眉をひそめ、
「普段は猫をかぶっておいて、そういう事件をあっさり起こせる奴がいるのが気に入らないの。暴行事件、それも人を殴り飛ばすなんて、下手すりゃ取り返しがつかなくなるとこなのよ? 結果を考えずに目先の利益を優先するなんて、バカ以外の何者でもない」
「へえ……」
 素直に感心したような声を出す笹森だが、有沢は不機嫌そうに、ねめつける。
「何よ」
「別に。有沢さんにも、そういう気持ちがあったんだなって」
「だから何が言いたいの!」
 ミルクティーを飲み干した笹森は、
「有沢さん。今日、バイトは何時まで?」
「――は?」
 一瞬、笹森の言わんとしていることを先に予想し、焦る有沢。が、続けて笹森が放った言葉は、彼女の想像を超えていた。
「気になるんでしょ? 事件のこと。それなら、少し調べてみない?」
「……あんた、バカなの?」
 今度こそ、有沢光子は本気で呆れかえった。



 
戻る