鱗の魔物ーーフンババが一歩を踏み出すと、それだけで地面が揺れたような錯覚に陥る。
 フンババは手に柱を握っていた。それが、さながらこん棒のように見えてしまう。とんでもない巨体だ。
 アディーは冷や汗を流しながら、
「サフィさん。ルベルとエメルさんを、逃がせますか」
「無理じゃないですか? どう見てもあいつ、見逃してくれない感じですよ」
「私がなんとか隙を作りますから」
「……善処はしますよ」
「じゃあ!」
 アディーは飛び出した。武闘家の脚力にあかせた、超移動。
 だが、フンババは高速で動くアディーの姿をはっきりと目で追いかけていた。
 フンババは柱を持ち上げ、振り回す。
「っ!?」
 足元がひび割れ、かと思った次の瞬間、崩れ落ちた。
「まだ地下がある!?」
 落下したのはほんの数十秒だ。だが、それが永遠ほどに長く感じた。
 岩塊を踏み台に、かわしながら着地する。直後、上からフンババが落ちてきた。
「ここは……。地底湖ッ……!」
 噂に聞く最下層。広い湖の真ん中が小島になっているようで、ちょうど島の上に着地できたようだ。運が良いと言うか、悪いと言うか。
「この落下は想定外、ですけど……」
 ここで自分が逃げてしまえば、あれだけ鈍重そうな魔物では追いつけないはず。幸いにも、一緒に落下した岩塊が湖の中で足場となっている。どうやら、水深もそう深くないようだ。
 これなら走って逃げきれるーーそう算段したのも束の間、
「きゃあああ!?」
「ルベル!?」
 上から落ちてきた少女を、アディーはなんとか抱きかかえる。お姫様のように抱き締めたルベルと共に、アディーは大きく飛びのいた。
「ルベル、なんで……」
「ディーちゃんが危ないって思ったら、アタシも落ちちゃって……」
「バカですか!? くっ……!!」
 フンババはこちらを見ている。さすがに、ルベルを抱いたまま走って逃げても、逃がしてくれないだろう。
 ならば。この場で仕留めるか、少なくても追走不能なほどに痛めつけるしかない。誰が? 自分が、だ。
「仕方ない、ですね」
 魔石を取り出し、飲み下す。
 闇の魔力を充填してなお、勝てる気がしない。そんな相手は初めてだ。
 だが、やるしかない。逃げ場はない。やるしかない!

「うわあああああああああああ!!」

 自らを鼓舞するように叫び、アディーは駆け出した。

☆   ☆   ☆   ☆


 サフィとエメルは、洞窟の中ほどで足止めを食らっていた。
「くっ……!」
 地下に落ちたアディーたちを追いかけたいが、足場もないところで飛び降りるわけにもいかない。かといって、そのまま前に進もうにも、フンババが洞窟を破壊してまわっているせいで道がないのだ。
 必死に道を探すサフィを横目に、エメルは言う。
「あなた、あの子たちがそんなに大切なの?」
「はぁ?」
「だって、あの魔物はどう見ても普通じゃないわ。今から追いかけても間に合わない。たぶん死んでるわよ」
「だからどうしたってんですか」
「自分の身を守ろうとは思わないの?」
「思いませんよ」
 三叉槍を抱え、サフィは大きな岩の塊を乗り越える。何故だか、エメルまでついてきた。
「そんなに長い付き合い?」
「一ヶ月は経っていないでしょうね」
「ついこの前じゃない。そんな子たちのために命をかけようって言うの?」
「時間じゃありません」
 サフィはエメルを見下ろし、
「時間じゃないんです。あんなおひとよし、他にいません。ボクが助けてやらないと、他に助けを求めることもできないでしょうしね」
「ふうん? 恋人なの?」
「……バカ言わないでください。ボクも彼女も女です」
「わたしも女よ?」
「そんなもん見ればわかりますが」
「見てもわからないのが性別というものよ」
「……?」
 くすりと笑い、エメルは続ける。
「性別ってね。黒と白みたいな、二色じゃないの。虹の色数が人によって違うように、グラデーションが存在するのよ。あなたは女だと言うけれど、自分の中に女との違和感を覚えたことはない?」
「それはただの個性でしょう。性別という言葉でくくれないだけの自我です」
「そうよ。そしてその自我を、人間は性別と名付けたの」
「なんの話ですか」
「好きだったのよ」
 岩を登りながら、エメルはぽつりと言った。
「前のキャラバンリーダー。女性なんだけどね。大好きだったの。他の何にも換えられないくらい」
「でも捨てられたのでしょう」
「はっきり言うのね、あなた」
「ボクも人類に片っ端から捨てられてきた立場ですので」
「ふふっ。なるほど、堅気ではないのね。そんな感じだわ」
「大きなお世話です」
「でも、それならなおのこと分かるんじゃないかしら。”普通”の人たちは、自分と少しでも違うと”おかしい”ってなじるの。そして、異なる点を認めない。本当は全員が同じ色じゃないのに、同じ色みたいに言うの」
「……」
 岩を飛び越えると通路が繋がっていた。バジリスクに遭遇しないよう、慎重に進む。
「赤にだって種類があるわ。紅色も赤色も桃色も、深紅だって薄紅だって、ぜーんぶ赤色。でも、それは違う色なんだわ。わたしはね、他の人と少しだけ違う色で……。でも、彼女はそうじゃなかった」
「それでも戻りたいんですか。戻ったところで地獄でしょう」
「わかっているわ。でも、離れるなんて考えられないの。どんなことをしてでも、戻りたいのよ」
「……その気持ちは、ボクにはわかりませんが」
 角を曲がったところで、サフィは足を止めた。
「ボクにとってのアディーたちと同じだ、と言いたいのですか?」
「そういうこと。恋路なら応援しちゃうわよ」
「残念ですが、ボクはまだ恋愛には早すぎる年齢ですので」
 でも、とサフィは続ける。
「捨てられないものがある人間は強いですよ」
「うふふ。そうでしょ?」
「だからって無茶は違うと思いますが……。ん?」
 少し進むと、壁に大きな窪みがあった。何かの巣穴にも見えるが、それは重要ではなかった。
 もっと緊急事態なのは、巣穴の周辺に散らばる肉片。ーー蛇の体だ。
「これ、あの魔物がやったのかしら……」
「そのようですね」
 力づくで引きちぎったような痕跡。バジリスクの石化眼をモノともしていない。
「……急ぎましょう。あいつは、本当にまずい」
 冷や汗ひとつ。サフィは駆け足でその場を離れる。そのすぐ後を、エメルが追いかけた。