|
水を中を泳いでいる。そんな気がしていた。 目を開くと、そこは、どことも知れない路地裏だった。 さっきまで、自分は図書館にいたはず。なのにそこは、ごみ箱が転がるだけの、薄暗い路地裏だ。 立ち上がり、路地裏を出る。目の前にあったのは公園だった。 街灯とベンチ。それだけしかない場所だった。そのベンチに、親子が座っている。 父親の隣に座る少女は、手にソフトクリームを持ち、ぺろぺろと舐めていた。 父親が口を開く。 「クレア。この世で最も美しい術式はなんだと思う」 「わかんない」 「僕はね、フェルカの術式だと思う。レオンもトリフも偉大な魔術師だけれど、彼らの作る術式に美しさはない。けど、フェルカは違う。彼の術式は、人工のものだって感じじゃない。まるで、自然そのもののような……。きっと彼の目には、人間など映っていなかったのだろうね。だから、あんなにも自然なんだ」 「お父さん、意味わかんないよ」 「ははっ、母さんにもよく言われるよ。でもね、あんなに単純な術式で、あれほどの成果を出した魔術師は、他にいない。だから、僕は、フェルカが大好きなんだ」 「お母さんよりも?」 「それとこれは別さ。もちろん、クレアのことも愛しているよ」 「お父さんって、女の子を口説くの下手そう」 「……どこでそんなの覚えてくるんだ。まったく」 「じゃあさ、お父さんは、フェルカのこと、なんでも知ってる?」 問われ、父親は苦笑した。 「なんでもは知らないさ。いや、誰も知らない、と言うべきか」 「誰も?」 「フェルカのラストスペルというのがあってね。それだけは、誰も解いていない」 「らすとすぺる?」 「凄いんだよ。なんでも、その術式に成功すれば、主の願いを叶える存在を生み出せるそうだ」 「ねがい?」 「ソフトクリームをたくさん作ってくれるかもしれないぞ」 「すっごーい!」 きゃっきゃと喜ぶ少女は、父親に言う。 「じゃあさじゃあさ、お父さん、頑張ってね! 頑張って、ソフトクリームたくさん作ろうね!」 「お父さんはソフトクリーム屋さんじゃないぞぉ」 ははは、と笑い声が聞こえて来る。 次の瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。 親子の像が見えなくなり、世界が一変する。 景色すら変わった。そこに広がっているのは、野原だった。リオンにもなんとなく見覚えがある。これはきっと、都市の外だ。 先ほどの父親が、草原に倒れていた。その脇に、少女の姿がある。 少女の前には、大きな熊のような生き物がいた。だが、こんなところに、熊がいるはずもない。あれは、そう、魔物だ。 女の子に魔物が迫る。周囲には誰もいない。危ないと思った瞬間、リオンは駆け出していた。 「クレア!!」 その小さな体を抱き、ごろんと転がる。直後を、魔物の鋭い爪がよぎる。 「お、お兄さん誰!?」 「軍人だよ! というかクレア、目を覚まして!」 「目を覚ます……?」 「君も軍人だ! ブライト・フェルカの研究をしている、立派な魔術師で! 魔術が大得意で、簡単な詠唱で魔術を発動できるくらいの天才で! それがクレア・ウィルジーヌでしょう!!」 「ぐん、じん……」 クレアを抱きしめながら、熊から逃げ回る。武器を持っていない以上、戦う術はない。息を切らしながら、それでも走る。 「思い出して、クレア! 君を、君自身を!! 子供の頃の思い出にひたるんじゃなく! 今の自分をつかみ出して!!」 「今の、自分……」 クレアの体が揺らいだ。否、その体が、変化しているのだ。 手が伸び、足が伸びる。腰に下げているのは短杖。そう、自分は6つの子供などではない。 「わた、しは!」 「そうだよ、君の名前は何!?」 「わたしは、クレア・ウィルジーヌ! 天才魔術師よ!!」 腰の杖を抜き、クレアは後ろから迫る熊に杖を向ける。 「アローサル! クラーワ!」 衝撃が熊を弾く。転がった熊は怒り、吠えたける。 「ごめんリオン! てかこれ何!?」 「こっちが聞きたいよ! でも、今は魔物をなんとかしなきゃ!」 「それもそうね! じゃあ、行くわよ!!」 リオンから下りたクレアは、転がっている石を拾い上げた。続けて杖を横向きに構え、熊に向ける。 「アローサル! クラーワ!」 放たれる衝撃。だが、今度は魔物を直接狙うものではない。 手に乗った拳大の石は、衝撃によって弾かれる。それはさながら、打ち出された弾丸。投石は熊の体に衝突し、その腹を貫く。 その瞬間、リオンは走っていた。飛び込み、全体重を乗せた跳び蹴りで熊を蹴り抜く。 転がった魔物は、立ち上がる気力もないようだった。うごめき、かすかな黒い煙を立ち上げ、そのまま露となって消え去った。 「やっ、た……!!」 喝采を叫んだ直後。世界が再び、揺れ動いた。 気がつけば、そこは書架の森だった。 目をしばたかせる。天井に輝いているのは魔力光。並ぶ書架と、図書館に漂う独特な紙の匂い。 「ここ、王立図書館……」 起き上がったリオンは周囲を見渡し、 「お帰り。よく帰って来られたわね」 自分の隣に、司書の女がしゃがんでいることに気づいた。 「どれくらい、経ちました?」 「お茶を入れたら冷めてた、ってくらいの時間」 「そんなものですか」 体感では、まる一日くらい経過したような気さえする。書物の中という概念そのものがよく理解できていない自分には、時間という概念も理解できなくなっているのかもしれない。 ふと気付けば、隣には、クレアが倒れこんでいた。 「クレア」 優しく揺り動かす。んん、とうなり、クレアは目を開いた。 「……リオン」 「うん、僕だよ」 「そうよね。ごめん、ありがとう」 「何があったか、理解できてる? ちなみに僕は理解できてない」 「私にも完全に理解できているわけじゃないけど。でも、さっき起きたことは現実な気がしてる」 「夢かもしれないよ」 「じゃあ、二人だけの夢ね」 そう言って、クレアはくすりと笑った。 「私のお父さんね、魔物に襲われて死んだの。実際は、軍人が助けてくれたんだけどね。哨戒中の小隊だった」 その時のクレアは、まだ子供だった。魔術が使いこなせるわけでもなく、まして、魔物に対抗する力などなかった。 「お父さんは、魔術の研究者で、魔術回路を利用したカセットコンロ、あれ作ったのよ」 「凄いじゃない」 「凄いのよ。でも、死ぬのは一瞬だった」 ふう、と息を吐いたクレアは、続ける。 「魔物を恨むわけじゃない。でも、魔物がいなければ、お父さんが死ぬことはなかった。だからね、フェルカの研究を始めたの」 「願いを叶える存在?」 「そう。ラストスペルを成功させれば、きっと、魔物がいない世界を作れるから」 「手伝うよ、僕も」 「ありがとう。じゃあ、また書物に食われたら、助けてくれる?」 「いつでも。それまでに、もっと強くならなきゃね」 「そうね」 くすくすと笑うクレア。その目元は、かすかに濡れていた。 |