「なんなのかしら、あの男」
「……純朴なただの人間でしょうか」
「はん。冗談はよしなさい。シャルの魔術が、ただの人間に破れるはずないわ」
「そうなると、余計に困るのですが」
「困る?」
 侍従は眉根を寄せ、
「エルフの伝承に、こんなものがあります。『その者、影より現れ、既知を砕き、霞のように消える』」
「何それ」
「昔、影より――現代の解釈では異世界から現れた者が、あらゆる知識、あらゆる知恵、あらゆる規範をひねりつぶし、文字通り世界をまっさらに変えてしまった、との伝承です。その者は、せっかく砕いた世界を支配することもなく、そのまま露となって消えたとか」
「それは、そういえば、ばあやから聞いたことがあるわ」
「……彼がそうだとは言えません。ですが、思慮の内には置くべきかと。もし彼が本当にそうならば、我々エルフに勝ち目はありません」
「そこまで言うの?」
「ええ。その者の名は禍月。過去、エルフの国家を破壊し、エルフが部族で生きることになった、その原因です」
「……ッ、まさか、たった一人で?」
「そう、伝えられています」
「冗談は、よしなさいよッ……」
 シャルロットは自分の腕を抱く。部屋の空気は暖かだったが。
「大丈夫ですか、シャル様」
「へ、平気よ。ちょっと寒気がしただけ」
「では今晩は一緒に寝ましょうか」
「子ども扱いするなっ」
「むしろ大人扱いしたいです」
「あんたさっきまで結構まじめな話してたわよね!?」
「欲望には忠実なのです」
「うっさいバカ!! もう下がりなさい!」
「はーい」
 一礼し、退出した従者に、主は嘆息する。
「……禍月、ね」
 そんなもの。
 存在するとは、思いたくない。

◇ ◇ ◇


 出方を聞いてこなかったが、転がったあたりに行くと、空間に不思議な裂け目が浮いていた。
 もはやそんな現象に驚くこともなく、黒崎は裂け目に手を突っ込んでみる。
「ッ!?」
 いきなり引きずり込まれた。
 気づいた時には、元の森に転がっていた。
「あ、クロさん!」
「……アンナ、ライルも」
 森の中には、置いてきた獣人の少女と勇者もいた。
 駆け寄ってくる二人は、
「大丈夫でしたか!?」
「ああ、問題ない」
 埃を払った黒崎は、立ち上がると、心配そうに自分を見上げるアンナを軽くなでてやった。
「わふ……、って、そうじゃなくて! エルフの里に行けたんですか!?」
「ああ、行ってきた」
「行ってきたって……。お前、よく五体満足だったな」
「大丈夫さ。彼女たちも、生きた人だ」
 そんなことを言ったら怒るだろうが、などと思いつつ、黒崎はゆっくりと歩き出す。その後を、アンナとライルがついて行く。
「で、交渉は成立したのか?」
「交渉にもならなかったさ。それに、交渉をしに行ったわけでもない」
「じゃあ、何をしてきたんだ」
「話をしただけさ」
 答えながら、黒崎は下草の続く獣道を眺める。
 彼女たちは、人間が憎いという。
 その気持ち。当然のことだ。彼女たちの世界で、人間は、恨まれて当然のことをした。
 もちろん、反対側の――人間の意見を聞けば、また違った感想もあるかもしれない。だが、確認したわけではないにせよ、おそらくはほぼ確実な事実として、彼女の仲間は傷ついているのだ。
 体の傷は治ることもある。だが、心の傷は、そうもいかない。
 それを、黒崎はよく知っている。
「……どうすれば、いいんだろうな」
 そんなことを独り言ちながら、帰路に着く。

◇ ◇ ◇


 家に帰ると、死体がひとつ転がっていた。
「……サキ?」
「なんじゃ、おんしか」
 むくりと起き上った死体――もといサキは、うつろな眼差しで黒崎を見上げる。
「どうしたんだ、一体」
「これじゃこれ」
 サキの部屋、テレビ画面。そこには、格闘ゲームのリザルト画面が表示されていた。
 戦闘数は143。一方、サキが握っていたコントローラーの側は、勝利数3。
「最初に3回勝ってからは全敗じゃ……。こやつ、とんでもなく強いぞ」
「学習しました」
 心なしか得意げなミレイ。それはまあ、実際に戦闘もできるコンピュータを相手に、コンピュータゲームで勝負しようというのが無理なのでは。プロの棋士ですらAIにはかなわないというに。
「……ふっ」
「あ、笑ったなおんし!!」
「いや、すまない」
 言いながらも、笑みがこぼれるのは止められない。
「憎み合う仲もあれば、こうして過ごせる仲もあるんだな、と思ってな」
「……何の話じゃ」
「なんでもない」
 絶望のようなものを感じたが。
 希望も確かにあるのだと、そんなことを感じる黒崎であった。