あれはいかほど昔のことじゃったか。もうとんと思い出せん。
 昔は今ほど人間の数も多くなかったし、妖怪たちの数はずっと多かった。
 妾は妖狐。獣の妖怪じゃ。
 獣は、長く生きると妖怪になる。尾が増えるにつれて力が増し、できることが増えていく。
 反面、妖怪として力をつけたところで、なしたいことが生まれるわけではない。力ばかりで目的のない、無限に続く生。
 生き物としては生きることこそが目的であったが、妖怪ともなれば、生きることは目的ではなくなる。死というものが遠ざかり、食事を探すことも、つがいの相手を探すこともしなくなる。
 あの頃、妖怪たちはそんな、退屈な生の最中にいた。百鬼夜行は、そんな退屈をしのぐための、ただのお祭りに過ぎなかった。
 集まった妖怪たちでどんちゃんと騒ぎながら、往来を練り歩く。それが楽しかったかと言われると微妙なところではあったが、なにもせずに無為な時間を過ごすよりはよほどよかった。
 そんな百鬼夜行を止めたのは、一人の若者であった。

『人々が怖がっているんだ』

 そう言った若者。血気盛んな妖怪たちは人間に挑み、けれど、勝つことはできなかった。
 圧倒的な霊力。因果や法則などといった言葉を鼻で笑い、百妖たちが束になってもかなわぬ化物。
 本当に笑ってしまう。あれが、あんなものが、人間だって?
 片っ端から力でねじ伏せ、鴨川を妖怪の血で染め上げた奴は、妾たち妖怪に向かってこう言った。

『俺に従え。そうすれば、命だけは見逃してやる』

 こうして我ら妖怪たちは、人間の配下となった。後にも先にも、あれほど妖怪を従えた人間は他にあるまい。
 人間は、我ら妖怪に対して特別な命令をしなかった。ただ、人間の迷惑にはならぬよう、あまり人が来ない川沿いにたむろするよう命じただけだった。
 妾も一度、不思議に思って聞いてみたことがある。

『なぜ妖怪たちを生かすのじゃ?
 お主の力があれば、妖怪を皆殺しにすることもできるじゃろうに』

 対する奴はこう言った。今でもはっきりと覚えておる。

『俺は妖怪が嫌いなわけじゃない。ただ、人間と喧嘩して欲しくないだけだ』

 本当に本当に、笑ってしまう。
 誰よりも人間と喧嘩をし、誰よりも強い力で妖怪たちをねじ伏せた阿呆が、こともあろうに妖怪と人間の喧嘩をいさめるつもりなどと。
 思えばあの時、妾は奴に恋してしまったのじゃろう。不覚にもな。
 それから妾は、奴の半生を共に過ごした。西に鬼があれば行って討ち、東に妖獣が現れたとなれば行って説得する。
 やがて、奴にもつがいができ、子を成した。その相手を好いていたわけではないが、奴が決めた道を邪魔するつもりもなかった。それに、妖怪でしかない妾ではつがいになることもできぬしな。獣では人と交尾もできん。
 子も育ち、親族も増え。そんな日々は、奴が寿命で死ぬまで続いた。
 以来、妾は奴の子孫を見守り続けている。
 じゃから、美空のこともまた、生まれる前から知っておる。

☆   ☆   ☆   ☆


「おや」
 部屋の掃除をしていると、懐かしいものを見つけた。アルバム、というやつじゃ。
 ここ最近、人間が作り出したカラクリーーカメラというものは、人間の姿を絵に変えて残す力がある。仕組みはようわかっておらんが、成果は何度も見てきた。
 開いてみる。美空も、幼い頃はよう写真を撮っておった。今は嫌がるがの。
「ふむ」
 その写真には、へし折れた庭木と、呆然としている幼い美空、そしてそんな美空を抱いて笑う母親の姿がある。
 この写真は、10年ほど前じゃったろうか。美空が力を制御できず、庭木の一部を吹っ飛ばした時のものじゃ。母親は霊能力者として先祖代々の力を発揮できないでおったから、美空が力を受け継いでいるとわかって安心したと言っておった。
 今から思えば、自分の娘が庭を爆破しておいて笑顔になれるとか、だいぶ頭のネジが飛んだ親ではあった。まあ、そのくらいでなければ、霊能力者の親など勤まらなかったかもしれんが。
 その後にも美空の写真は続く。
 霊能力者として、力の制御を教えたのは妾じゃ。なにせ、美空の母親は力をまったく発揮できておらんかったから、制御どころの話ではなかった。
 10になる頃には力を身につけ、並の妖怪など相手にならないほどになっておった。
「……」
 その次は、喪服を着たあの子の写真じゃった。
 あの子の父親は知らぬ。娘が普通の人間ではないと知り、父親はいつの間にかいなくなっておった。母親はそんな状況でも、笑顔を絶やさない娘だった。
 そんな母親が亡くなったのは、半年ほど前のことじゃった。
 何かの事故だったと記憶している。何の事故かは、聞いていないか、聞いたとしても知らぬ単語で覚えきれなかったものと思う。
 あの時、美空はあまり泣かなかった。その時にはすでに、心を患っておった。もはや親族の死では揺るげぬほど、心が疲弊しておったのじゃろう。
 そして、その疲れは今も取れておらぬ。
「難しいのぅ」
 長く生きた獣である妾は、ちょっとやそっとのことでは心が動いたりせぬ。けれどそれは、美空とは違うものじゃ。
 知っていることに、心というものは動かされない。千年を生きる妾にとって、初めてのことなどほとんどない。そのせいで、心が動かぬのじゃ。
 けれど美空は違う。
 まだ若い彼女は、色々なことを経験している。初めて出会うことも多いじゃろう。それでも心が動かないのは、心がそれらを受け止めるだけの余裕がないからじゃ。
 彼女にとっては、今は世界を呪うので精一杯。人間どもを憎むあまり、それ以外のものが心という器に入る余力がない状態じゃ。
 なんとかしてやりたいとは思う。奴の子孫である美空は、幸せになって欲しいとも思う。
 けれど、彼女がどうなれば幸せになれるのか、千年を生きる妾にもとんとわからぬ。
 人と接すればよいのか。人と離れればよいのか。
 妖怪に過ぎない妾は、人間の心というものを、いまだに理解しきれておらぬ。
 ただ幸いと言うべきか、あの子には一人で生きていく力と、財産があった。あの子の母は娘にそれなりのものを残しておったし、あの子が大人になるまでは生きていけるじゃろう。
 けれど、あの子の心は成長できぬまま。大人を迎えられるような状態ではない。
 では、どうすればいいのか。
 それは、妾の目下の悩みでもある。
「ん」
 気がつけば、時計の針がかなり進んでしまっておった。
 妾はアルバムを片付けると、夕飯の用意を始める。
 それくらいしか、今の妾にはできぬのじゃ。