足音が近づく。

 ぺたぺた、ぺたぺた。

 二人で息をひそめる。個室の中は狭い。
 ……もしも、この個室にいることがバレてしまったら? 逃げ場はない。
 今更ながら、こんな逃げ場のない場所に隠れてしまったことを後悔した。しかも二人でなんて。
 せめて僕だけでも手前の個室に隠れていれば、リリパットだけでも逃がせたかもしれないのに。

 ぺたぺた。ぺた。

 足音は僕らが隠れた個室の手前で止まると、隣の扉がぱたんと閉じた。
「……?」
 個室に、入った? 教師もトイレに入る、のか?
 いや、まあ、職員用トイレなんだから当然といえば当然だけどーー。
 不思議に思って個室からこっそりと覗くと、廊下の光が見えた。そこに影が差す。
「ッ!!」
 慌てて首を引っ込める。
「ど、どうし……」
「しっ」
 声をひそめた。今の影は……。
 直後。のっしのっしと誰かがトイレに入ってきた。
 その人物は、手前から個室の扉を開いていく。
 ぎい、ぎい、ぎい、と。
 そして、隣の個室にーー。

「きゃあああああああああ!?」

「ッ!?」
 悲鳴に、思わず目をつぶる。
「やめて!! いやっ、やめてええええええええええ!!」
 響く悲鳴。耳を塞ぎ、目を閉じても聞こえてくる声。
 飛び出せば助けられるだろうか? その思いを塗りつぶすほど、圧倒的な恐怖の声。足がすくむ。手が震える。
 ぎゅっと、抱き締められた。リリパットだ。
 顔をあげると、リリパットは口許に指を当てた。そう、ここで飛び出したところで、女二人の力しかない。勝てるはずがない。
「離して、離せぇぇええええええええ!!」
 悲鳴が徐々に遠退いていく。ずるずると引きずる音。声が遠くに行ったところで、僕は息を吐いた。
「……」
 震えが止まらない。彼女は殺される。僕が、僕らが、助けなかったせいで。
「違いますよ」
 そっと、リリパットが耳元でささやいた。
「助けなかった人のせいではありません。最も悪いのは、殺した当人です」
 殺した当人が悪い。
 殺した、か。
 彼女はこのままだと殺される。それが理解できていて、なお動かない自分。
 ーー違う。駄目だ。
 僕は、僕を抱き締めるリリパットをそっと押し返した。
「殺人犯が悪いのは、その通りだよ。でも、助けなかった方が悪くないってことにはならないと思う。だって……。それはいつか、自分も”助けてもらえない”ってことだから」
「……あかりちゃん」
「いつか助けて貰いたいなら、助けることからも逃げちゃいけない。それが人間だ。今さらだけど、追いかけようよ。何かできることがあるかもしれない」
「わかりました。でも、廊下や教室に隠れているかもしれません。それに、他の教師に見つかるかも……。慎重に追いかけましょう」
「うん」
 リリパットと一緒に個室を出る。トイレの床には血がたれていた。
 血痕は点点と廊下に続いている。その痕跡を追いかける。慎重に、慎重に。
 渡り廊下を進み、上の階へ。血痕は教室の中に続いていた。二年四組の看板が出ている。
 廊下には、教室の中を覗くことができる窓があった。腰をかがめて窓の下まで移動すると、そっと中を覗き込む。
 中には、大男の姿はなかった。転がっている机や椅子、そして、倒れた一人の人物。
「……!!」
 蛍光灯に照らされた一人の人物。その生死は、廊下から見ている範囲でも、確かめるまでもなかった。
「ひどい」
 教室の中に入り、遺体に近づく。
 教室で見かけた子だろうか。顔は殴られたらしく腫れている。
 僕らと同じセーラー服を着ていたんだろうか。ビリビリに破られ、原型はない。下半身は特に血まみれで、足はおかしな方向にひしゃげていた。靴はどこかに消えている。
「これ、本当に同じ人間がやったのかな……」
「あの大男を見る限り、同じ人間とも思えませんでした。超常現象ですから、相手の腕力も超常的なのかもしれません」
 だとしたら、つかまれば生き残る方法はないということだ。
 恐怖に彩られた表情が、その事実を示している。
「あの。死体、怖くないんですか?」
「え?」
「冷静に見ているようなので……」
「ああ。初めてじゃないから」
「えっ?」
 僕は首を横に振り、
「それに。僕らが生き残ったのは、彼女のおかげだよ。彼女が僕らより手前の個室に隠れていたから、僕らは生き延びただけ……。順番が違っていれば、殺されていたのは僕らだ」
「それは、そうですね」
「だから、彼女には感謝をしないと」
 そっと手を組み、少しだけ彼女のために祈った。せめて、彼女の死後は、幸せになれるものと信じて。
 目を開くと、リリパットはまだ僕の隣で待っていた。
「危ないよ、ここも。いつ戻ってくるか」
「そうですね」
「……それにしても」
 立ち上がり、周囲を見渡す。
 何もない教室だ。特別なところはない。
「なんであの男は、わざわざここまで運んできたんだろう」
「なぜって?」
「あのままトイレで殺してもよかっただろうに、教室まで運んでくるなんて妙だと思わない?」
「……言われてみれば。あるいは、トイレや廊下じゃ殺さないようなルールでもあるんでしょうか」
「でも、僕は踊り場で死体を見たよ。他の人も廊下で死体を見たと言っていた。教師が殺人現場を選んでいるとも思えないけど」
 あるいは、何かあるんだろうか。トイレで殺せなかった理由が。
 顔を上げる。窓の外、遠くが少し明るくなっていた。山の稜線が見て取れる。
「朝だ……」
「”夜”が終わりますね」
 リリパットが言った直後、きーんこーん、とチャイムが鳴った。

『校内放送です。”夜”が終了しました。教員の皆様は、次の”夜”までお待ちください』

 それが、謎と恐怖に満ちた夜が中断する合図だった。