大きな入道雲と無意味に明るい太陽が夏を告げている。 校舎から吐き出されるように出てくる生徒たちの顔色は一様に明るい。明日からの、いや、今日からの楽しい日々に期待を持って。 この日、東京のとある高校は夏休み前の最後の日を迎えていた。ホームルームも終われば、後は自由の身。心躍るのも無理はない。 「あっちー……」 青空を見上げ、少年は呟いた。 今時は珍しい黒い髪。制服の白いシャツが陽光の中で眩しかった。 明るい表情の生徒たちに混じり、少年は暗い表情で歩き出した。 少年の名前は橋本ヒカル。現役高校三年生だ。来年には受験を控えており、今年の夏は勉強で忙しいだろう。友人たちも慌てて塾や予備校へと走っていった。 年齢相応の焦りと、勉強をしなければならないという事実。それらがヒカルの表情を暗いものにしていた。 「受験勉強なんてしたくねーよな。だいたいさ、そういうのって生きるのに何の必要もないっての」 小さな声で愚痴を漏らす。口にしたところで現実は変化しないのだが、言葉にでもしていないとやっていられない気分になる。 学校から離れるにつれ、生徒の数も減っていく。やがて、道を歩く人間はヒカルひとりとなった。 静かな住宅街はどことなく非日常的な雰囲気が漂う。まるでこのまま、どこか別の世界へと行ってしまいそうになるくらい。 「どっかに行けるなら行きたいよ、そりゃあさ。そうすりゃ勉強だってしなくて済むのに……」 ヒカルは俯いて角を曲がった。その視界が急に薄暗くなり、ヒカルは顔を上げた。 「あん……?」 いつの間にか空を黒い雲が覆っている。もしかすると、夕立でも降るのかもしれない。 ヒカルは今、傘を持っていない。そもそも今朝の天気予報では、雨が降るなどとは一言も言っていなかったのだから当たり前だ。 「やっべー。走るか」 額の汗を拭い、ヒカルは走り出した。走れば家に数分で到着する、その程度の距離。 “……けて” 「え?」 重く響き渡るような小さい声に、ヒカルは立ち止まった。キョロキョロと見回すが、人影は自分以外にない。 「気のせい、か?」 “助けてくれ。我々では限界なのだ” 「は!?」 何度も辺りを見回す。が、結論は同じ。誰もいない。いや、いないはずだ。いないはずなのに、声がする。ありえないはずの出来事が、今、ヒカルの目の前で起きている。 “悪いがこちらに来てもらう。暴れても構わないが、あまり暴れない方が身のためだぞ” 突如、地面が光り出す。ヒカルの周囲を中心に、青白い光がヒカルを包み込んでいった。 「え!? な、何だよコレ!?」 突然の事態でヒカルは動く事さえできない。そうする間にも輝きは増していく。光は五芒星を描き、ヒカルの視界にあるその全てを埋め尽くした――。 遠く、地鳴りのような声が聞こえる。いつの間にか、ヒカルは気を失っていたらしい。 ヒカルは恐々と目を開いた。 最初に目に入ったのは変わらぬ青い空。雲ひとつない晴天だ。 ゆっくりと体を起こし、ヒカルは周囲を確認した。そして、思わず呟いた。 「どこだよ、ここ……」 新緑色の木々と整備されていない荒野のような道だけが広がっている。すぐ近くには崖があった。地鳴りは崖の方向から聞こえる。 ヒカルは夢遊病の患者のように崖の方へと歩いていった。その、先。 「嘘……だろ?」 崖の向こうには正真正銘、荒野が広がっていた。砂色の荒野には大勢の人がいる。 彼らは手に手に剣を持ち、殺しあっていた。誰かが剣を振るう。斬られた誰かから血しぶきが散る。 時折、戦場に炎が舞い、氷の華が咲いた。直撃を受けた人は、もう動く事はない。 あまりにも非現実的な光景。昔の戦争のような、それでいてどこか違った光景。少なくても、夏休みを控えた住宅街ではない。 「何だよ? ど、どこだここ……? 夢、か?」 手に触れる砂利の感覚、耳に残る爆音、目に入るその全てが圧倒的にリアルなのに、だからこそ非現実的で、信じられない。 『何ッ!?』 驚いたような声に、ヒカルは振り向いた。 木陰からひとりの男が姿を現したところらしい。手にはゲームに出てくるような大きな剣を持ち、胸は木色の鎧で覆っていた。黒に近い緑色の髪が汗で額にへばりついている。 『ちッ! すでにこちらにもニンゲンが着ていたか!』 男は意味のわからない事を口走りながら、ヒカルに向かって駆け出した。 ヒカルは動かない。動けない。理解しきれない現状に反抗する意思さえ沸いてこない。ただ、目の前の光景をブラウン管越しに眺めるように、ボーっと見ているだけだった。 男はあっという間に間合いを詰め、剣を振り上げた。それが振り下ろされる直前で、影に弾き飛ばされる。 『ぬッ!?』 男が声を上げるのと、 「はッ!」 影が声と共に男を蹴り上げるのは、同時だった。 アゴを蹴り上げられ、男はゆっくりと後ろに倒れこんだ。男を蹴り上げた人物は、ゆっくりと背後のヒカルを振り返った。 「大丈夫、でしたか?」 可愛らしい声で問いかけられても、ヒカルは頷く事さえできなかった。 ヒカルの前に立つのはひとりの少女。見た目からするとヒカルよりも少しだけ年下といったところだろうか。美しい銀色の髪を後ろで無造作に縛っている。簡素な染色されていない法衣に身を包み、僅かに微笑んでいた。 全く己を飾っていないのに、少女は輝いていた。整った顔立ちで、その瞳は左右で異なる光を放っている。 少女は腰を屈め、わざわざヒカルと目線を合わせた。その目には不安げな色が漂っている。その瞳が、一瞬だけ大きく見開かれた。 「あの……もしかしてどこか、お怪我を?」 少女が心配そうに重ねて問いかけてきた。ヒカルはその頃になって初めて、首を横に振る余裕が生まれた。 その様子を見て、少女は安堵したように頬を緩ませた。 「よかったですね。でも、ここは危ないですよ? 安全なところへ移動しましょう」 少女はヒカルに手を伸ばした。ヒカルはその華奢な手を握り、ゆっくりと立ち上がった。 立てばヒカルが少女を見下ろすカタチになる。ヒカルは無意識に尻を叩きながら、少女の方を向いて口を開いた。 「あの、どうもありが……」 「エレナ殿!」 ヒカルの声を遮り、ハスキーな声が響いた。 崖に背を向けて立つヒカルの左方から誰かが走ってきた。茶色っぽい短髪で、少し女性的な感じを受ける顔立ちだ。腰から剣をぶらさげているあたり、どう見ても現代日本人ではない。 微かに息を切らせながら、走り来た剣士は少女に非難がましい視線を向けた。 「エレナ殿、おひとりで行かれては危険でしょう。何のために私が護衛をしていると思っているのですか?」 「いえ、あの、エルフの声が聞こえたものですから……」 「なおさらです! 確かに返り討ちに遭う可能性などほとんどないでしょうが、あなたを危険に晒すわけにはいかないのですから! あなたが怪我を負ってしまうと教会もうるさくなりますし、ダイナスにも迷惑がかかりますよ?」 「あ……、それは、困りますね。ごめんなさい」 少女は軽く頭を下げ、走ってきた茶髪は腰に手を当ててため息をついた。 「それで、こちらの男性は……」 ヒカルの顔を見た瞬間、やはり少女と同じように、この剣士も目を見開いた。 「そ、んな……? まさか、アルフ……?」 「え?」 その反応に心当たりのないヒカルは、思わず疑念を声に出していた。 「この人は、アルフレッドさんではありませんよ」 少女は教えると言うよりも言い聞かせる感じで言った。茶髪もようやく気付いたように、気まずそうに顔を背けた。 「あ、ああ。わかっています。それでエレナ殿、お知り合いで?」 「いえ。こちらで初めてお会いしました」 少女はまたヒカルの方に顔を向けた。 「私はエレナです。エレナ・テスタロッソ。あなたのお名前は?」 「え? あ、オレは……ヒカル、です」 言葉を口にする事で、ヒカルの中に余裕が生まれた。生まれた余裕を勇気に換えて、ヒカルは質問をする。 「あの、ここはどこですか?」 「ここはエルフ領と人間領の境に近いところです。ここから近い人間の国はディラータですけど?」 半分は予想していた答えだった。けれど、それが現実になると、やはりヒカルにはショックであった。 目の前に広がる光景。エレナの服装や外見。そこに未だ倒れている男が持っていた剣。その全てが現代日本にはあるはずのないもので、しかし現実として目の前にある。 これが嘘や幻の類ならどれだけ楽だろうか。けれど、五感の全てがこれは現実であると伝えていた。 「ヒカルさんはどちらからいらしたんです?」 「……東京、です。いや、日本って言った方がいいか」 「ニホン」 聞き慣れていない名前なのだろう、どことなくおかしなイントネーションで繰り返した。エレナのその行動が、ヒカルを更に絶望へと叩き落す。 どう考えても、ここが日本である事はない。どころか、地球上のどこであろうと、こんな場所はありえない。日本語が通じるのに、銀色の髪をした少女がいたり、剣を振るう男がいる場所なんて。 「何か、事情がおありのようですね」 何か納得したのか、頷きながら、エレナはヒカルから視線を外した。 「アリシアさん。ヒカルさんをダイナスさんのところまで連れて行って、相談しませんか?」 「……わかりました、そうしましょう」 アリシアはエレナに負かされた男から剣を奪い、腰の小さな鞄から取り出したロープで縛り上げた。 「おい、起きろ」 男を無理矢理に立たせると、アリシアは先頭に立って歩き出した。 「ヒカルさん、私の知り合いに頼もしい人がいます。その人に色々と相談してみて下さいませんか?」 「あ、ありがとう」 エレナは可愛らしく微笑み、ヒカルの手を取って歩き出した。ヒカルは何も考えられず、ただ先導されるままに、見知らぬ土地を歩き出した。 |