ヒカルが図書室へと戻ると、木製の椅子に座って眠るひとりの少女が視界に入った。
 ヒカルはその少女の近くまで歩み寄ると、まじまじをその顔を見つめた。
「こうして見ると、可愛い、よな」
 改めて見るまでもなく、少女の目鼻立ちは整っている。陽光の降り注ぐ下での光景は、まるで一枚の絵画のようだ。エレナの無防備な寝顔を見ていると、思わず抱きしめたくなってしまう。
「ってえ、駄目だ駄目。んな事したら追い出されちまうよ」
 独り言を呟き、ヒカルはエレナを揺り動かした。
「ほら、エレナ。こんなとこで寝たら風邪を引くぞ」
「ん……」
 僅かに声を漏らし、エレナはゆっくりと目を開いた。その仕草すら、ドキリとするほどに心を動かす。
「アルフさん――?」
「は?」
 ヒカルが問い返すと、突如としてエレナは目を見開いた。
「え? あ、ああヒカルさん!? すすす、すみません!」
 がばりと起きると、エレナは羞恥に頬を染めた。
「ついウトウトしてしまいまして、待ちましたか!?」
「あ、いや。オレも今さっき来たばかりだから」
 言いつつも、ヒカルの顔は暗かった。エレナはそれを、ヒカルが自分をおもんばかって言ってくれた嘘のせいだと認識した。
「すみません、それじゃあ行きましょうか」
 エレナは慌てて立ち上がり、
「あいた!?」
 足を机にぶつけた。その姿に、ヒカルは思わず噴き出す。
「はは、何やってんだよ」
 エレナの顔はますます赤くなり、うつむき加減に歩き出した。
 ヒカルも後を追うように歩き出し、ふと聞いた。
「そういやエレナってこの教会で一番、偉いんだよな?」
「え? え、ええ。一応、ディラータの教会の責任者をやっています」
「それってやっぱ、すごい事だよな?」
「そんなに大げさな話じゃありませんよ。私が先代の教皇様に拾われて育てられたので、ここの責任者になっただけなんです」
「拾われて?」
 ああ、と呟くように言い、続けてエレナははっきりと言った。
「私、両親を早くに亡くしたんです。この世界では珍しい話じゃありません」
 淡々と言うエレナの横顔には、本当に何の表情も浮かんでいなかった。事実をありのままに受け止め、それが至極当然と言わんばかりに受け止めた空気が、その顔には漂っている。ヒカルが、ぞくりとするくらいに。
「ですから、私にとって教会は全てなんです。何よりも大事で、何者にも変えがたい。そういう存在なんですよ」
「すべて、か」
 そう断言するエレナが、ヒカルには少しだけ、怖かった。
 もし教会が失われたら、エレナはどうなってしまうのだろう。もし教会という支えが消えかけたら、エレナはどうするのだろう。その時も、こんな恐ろしいまでの無表情になるのだろうか。
「オレに、できるのかな」
 エレナの支えとなる事が。アルフレッド・アレンという、エレナが愛した男の身代わりとなる事が。
 あるいはそんな事を誰も望んでいないかもしれない。それでも、ヒカルはそうならねばならないと思った。理屈ではなく、感覚で。
「ん? どうかしましたか?」
「あ、いや、何でもない」
 疑問符を頭の上に浮かべるエレナに向かい、そう言いつくろって、ヒカルは無理やり笑顔を見せた。

 こうこうと魔法の光が部屋を照らしている。ダイナスは分厚い、小難しいタイトルの本に目を通していた。
 一方、ヒカルはエレナに貰った『修道指南書』という本を読んでいる。新米修道士が読む本で、魔法の使い方などに関する記述がある、本来なら門外不出の本だ。これを外で読めるのも、ヒカルが特別扱いを受けている証拠である。
 アリシアは何かの護衛の仕事とかで、今日は帰りが遅い。つまり部屋には、ヒカルとダイナスのふたりだけという事になる。
「そうだ、ダイナスさん」
 ヒカルはふと思い出したように、ダイナスに声をかけた。ダイナスは無言で目線をヒカルに移す。
「アリシアさんに弟さんがいたって、本当ですか?」
「その話、どこで?」
 ダイナスの眼光が鋭くなる。その目に、ヒカルは一瞬だけ、背筋を凍らせた。
「エドガー……さんに聞きました」
「そうか。彼はおしゃべりだな」
 ぱたんと本を閉じ、ダイナスは立ち上がった。本棚から一冊の本を取り出し、それを広げてヒカルに見せた。
 細かい字が並ぶ本に、しおりのように絵が挟まっている。鉛筆のようなもので書かれたラフ画だ。
「アルフレッドだ。元第一師団所属、アリシアの弟さ。聞いたと思うが、すでに戦死している。エルフ戦の最中で、ね」
 その絵は、まるでヒカルを描いたようだった。ヒカルの知人に見せれば、十中八九までヒカルを描いたものと間違うだろう。顔の造詣、表情、全てがヒカルにそっくりだ。
「黙っていた事は詫びよう。だが、隠していたわけでもない。ただ、話す理由がなかっただけさ」
 ソファに足を組んで座り、ダイナスは言った。ヒカルは絵から目を離し、ダイナスへと目を向けた。自然なその風体には、焦りや緊張の色は見られない。
「それで。何か、聞きたそうだね」
「いえ。ただ……」
 言いにくそうによどむヒカルに、ダイナスはずばりと核心を突いた。
「自分が拾われたのはアルフレッドに似ているからではないか、かな」
 ヒカルはあからさまにギクリとした。肩が震え、顔色もこころなしか白い。
「だったらどうだと言うんだい。仮に君がアルフレッドに似ているから拾われたのだとしても、それで君の処遇が変わるわけじゃあない。君自身が気にする話じゃないはずだろう?」
「それは、そうなんですけど……」
「では、この話は終わりかな?」
 しばらく考えた後、ヒカルは小さく言った。
「いえ。やっぱり、知りたいです。オレにはもっと知りたい事がある。元の世界に戻るのとかは関係なく、知りたい事が。そのためには、アルフレッドについて知らなきゃいけないんです」
 しばらく、沈黙が続いた。夜風が窓をカタカタと揺らす。
「――いいだろう。いつかはこんな日が来るとは思っていたし、ね」
 いつもの柔和な笑みを浮かべ、ダイナスはそう言った。
「ただ、ひとつだけ約束して欲しい。アリシアの前では、アルフレッドの話は厳禁だ。それは守ってくれるかな?」
 ヒカルが頷くと、ダイナスもまた、満足そうに頷いた。
「では、話そうか。アルフレッドはアリシアが入団した一年後に入団した。私はその時点で第一師団副長、彼は新米だ。本来なら出会う機会もなかった。私が彼に会ったのは、アリシアに紹介された時だ」
 ダイナスはその頃を思い返すように目を細めた。
「アリシアは剣の才能があってね、入団直後から話題になっていた。それだけに出世も早く、元より出世街道にいた私と大差ない速度で出世していた。私がアリシアに出会ったのもそんな頃だ。最初は互いに副長という立場で。その後、徐々に仲良くなった。そして、彼を紹介されたというわけだ」
 ダイナスの脳裏に、懐かしい光景が思い浮かんだ。
 上司に相対して緊張しきったアルフレッド。その背をアリシアがどんと叩き、そのせいでアルフレッドはコケて壁に顔面をぶつけた。
 本当に忘れかけていた、懐かしい思い出。
「彼はアリシアに比べると剣の才能はなかったらしく、兵士団でも目立たない存在だった。小柄なくせに無理に双剣を使ってね、オレはこれで強くなりたいんだー、なんて言って、よくアリシアを困らせていたものだよ」
 なんでも昔、兵士団の師団長が双剣で戦う姿を見て憧れたとかで、アルフレッドは似合わない剣をふたつも持って、必死に剣術の真似事をしていた。それも、今となっては昔の事。
「口癖は『オレが姉貴を護る』。しょっちゅう言っては、逆に護られて不満そうだったよ。もっとも、剣術だけで師団副長になったアリシアとでは、次元が違うのだがね」
 ふふ、とダイナスは笑い声を漏らした。それは、すぐに暗い顔にかき消された。
「彼が死んだのは入団して五年目の話だ。今から四年前。エルフの仕掛けた奇襲に我々が対応したものの、圧倒的な勢いは止めきれなかった。そして、撤退する途中でエルフ軍の攻撃に遭い、彼は、命を落とした」
 それは、本当にあっさりと。まるで絵空事のように、彼は何の脈絡もなく死んだ。たったひとりの、アリシアにすぐさま切り伏せられるようなレベルの相手に、あっさりと斬られて。
「その直後、アリシアは団を辞めた。口調も男のようになり、まるで完全に女を捨てたようだ。おそらく、アルフが死んだという事実に責任を感じているのだろう。護れなかった、とね。もちろん、それはアリシアだけではない」
 ダイナスは遠い眼差しをふとヒカルに向け、
「エレナ殿とアルフの関係については?」
「恋人同士だったと、聞きました」
「そうか、なら話は早い。エレナ殿もまた、ショックを受けているだろう。何しろ、彼が死んで数日の間、エレナ殿の姿は見れたものではなかった。それでも彼女が立ち直ったのは、信仰のおかげだろうね。神の下に召されたという言葉で、現実を覆い隠したんだ」
 現実はあまりに冷酷。信仰は、その現実からの退避口。全ての現実に逐一、目を向ければ、人間には耐えられない。そこから救うためのものが、信仰。
「ダイナスさん、は?」
「私とてショックさ。だが、私にとって彼は単なる部下だ。部下の死にいちいち涙していられるほど、この世界は甘くない。それは認める認めないに係わらない、現実なんだ」
 それは悲しい話だ。涙する事すら失礼なほどに。
 知人が死んで、その事実に涙を流すことすら許されない世界。それが、ここ。それが、兵士団。
 そして、それが当たり前なんて。それは悲劇などという言葉で言い表せるようなものではない。暗く陰惨で、どこまでも悲しい。
「私の知っている事はだいたい、その程度だ。直属の上司でもなかったし、詳しい話は知らない。ただ、アリシアは兵士団を辞めて一年ほど、バトルヘルパーとして流浪していた。帰ってからは、私と同居している。元の家は、アルフを思い出すから帰りたくないそうだ」
「そう、だったんですか」
 暗く沈んだ顔のヒカルを見て、ダイナスは微笑んだ。
「聞かない方がよかったかい?」
「いえ。聞いてよかったと思います」
「そうか。それはよかった」
 ダイナスは立ち上がり、テーブルの上に置いてあったポットからカップに茶を注いだ。
 それをゆっくりと飲み、ヒカルに向き合う。
「別に、君はアルフレッドではない。だから、無理にアルフレッドになる必要もない。よって、君自身が気にする事もない」
「わかっています。確かにオレはアルフレッドじゃない。会った事もない人間の代わりなんて、オレにはできない。でも……」
 決意に満ちた瞳が、ダイナスを射抜いた。
「オレは、恩返しをしたい。エレナやアリシアさんがアルフレッドの事から吹っ切れていないなら、オレの力で吹っ切らせてあげたい。それが、恩返しにもなると思うんです」
 ダイナスはそっと笑い、小さく、できるかな、と呟いた。
「できるかどうかじゃない。やるんです」
「若いというのは、羨ましいね」
 カップを傾け、ダイナスはそっと微笑んだ。



  
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