『見逃しても構いません』 その、エレナの言葉。そのたった一言がヒカルの芯に火をつけた。原因のわからない、どこに向かっているのかもわからない怒りがふつふつと沸いてくる。 「んだよ、それ。オレだけ特別扱いしてくれるってか?」 ヒカルの声に怒気が混じっていく。様々なものに対する憤りが、ヒカルを支配していく。 「退いて下さい、ヒカルさん。あなたの実力では私には敵いません」 「ああ、そうだな。だったら殺してみろよ」 ヒカルは一歩、踏みしめるように前に出た。エレナは、まだ動かない。 ヒカルは更に踏み出していく。エレナは、まだ動けない。 「やめて……止めて下さい、ヒカルさん!」 「来るなっつーならオレを殴れよ。エドガーをやったみたいに、オレを殺してみせろよ!」 ずんずんとヒカルは進んでいく。だが、エレナは指一本すら動かさなかった。動かせるわけもなかった。 「どうした? エドガーは殴れるのに、オレは殴れないのかよ!?」 とうとうヒカルはエレナの目の前まで迫った。 ヒカルは手を伸ばし、エレナの服を掴んだ。まるでチンピラのように、襟元をガッと掴む。 「オレだけ差別か!? ああ!? どうしたよエレナ、どうしてオレは殴れない! どうしてエドガーを殴った! どうして、なんだよ……」 とうとう、ヒカルの頬を涙が伝った。それは小さな雫となり、こぼれ落ちて行く。 「どうしてだよ、エレナ……。どうしてエドガーと戦わなきゃいけなかったんだ? 仲間を傷つける事より、教会だか信仰だかの方が大事だっつーのかよ?」 エレナは今にも泣きそうな顔のまま、しかし何も言わない。何も答えない。 「お前は、オレの背負うもんを一緒に背負うって言ってくれたよな。お前はオレのもんを背負うのに、オレはお前が背負うものをわけてもらえねーのか? 教えてすらもらえねーのか? どうしてなんだよ、エレナ……」 エレナを離し、ヒカルは拳を握り締めた。ぽたぽたと落ちる涙を、石の床が吸い取っていく。 やがてエレナは、重苦しい声を発した。 「……私は幼い頃、両親を亡くしました。人間でもない、エルフでもない、中途半端なこの身では、どちらに混ざる事もできずに孤独でした」 誰にも頼れず、誰もが敵で、味方はひとりもいないという現実。孤独の中で戦い、けれど、その圧倒的な力の前に挫折しそうだった幼少期。それを救ってくれた、たったひとりの人間。それが彼女の全てとなった。 「そんな私を救ってくれたのが、先代の長でした。先代はまだ幼かった私をディラータに連れ帰り、様々な人を説得して、私がディラータに住めるように尽力して下さいました。そして、今の私があります」 多くの障害を乗り越え、突き抜け、ようやく得た偽りの平和。あまりにも暖かい陽だまりは、逃れるのが辛かった。 だからしがみついていた。縛られていた。逃れられなかった。 「だから私は、何があろうとも教会だけは捨てられないのです。教会がなくなれば、私はきっと私でいられない。それが怖いから、私はエドガーさんに拳を向けました。自分の事ばかりを考え、他人を傷つけるという最低の道を選んだんです」 そのあまりに悲しげな口調は、ヒカルの涙を止めた。その言葉に対しては、泣く事すら失礼だと思ったから。 彼女が泣いていないのに、それには同情する事も、悲しむ事すら、失礼だと思ったから。ヒカルは、泣けなかった。 「私はもう戻れません。ヒカルさんは、帰って下さい。戻れる間に、戻って下さい」 エレナはそっと、拒絶するようにヒカルを押した。 それは小さな動作で、けれど、決定的で。自分はもう戻らないという決意を表し、同時に、ヒカルにこれ以上はこちらに来るなという意思表示でもある。 けれどヒカルは、エレナの伸ばした手を掴んだ。しっかりと、逃がさないように。 「エレナ。まだ戻れる、行くぞ」 「え……?」 「エドガーはまだ死んじゃいない。お前の回復魔法があれば助かるんだ。だから、助けてやってくれ。そうすれば、何もかも元通りになるんだから」 「無理ですよ、ヒカルさん。ここを知った人を生かしておくわけには――」 「まだそんな事を言ってやがるのかッ!」 パンッと、乾いた音が響いた。ヒカルの平手が、エレナの頬を叩いたのだ。 「エドガーの命と、教会と! どっちが大事なんだ!」 「でも……」 「いいか。昔はどうだか知らないけど、今はみんながお前を認めているんだ。必要としているんだ。教会に頼る必要はない。もし世界中のみんながお前を嫌ったって、オレは関係ない。お前を見捨てない。約束、するから」 ヒカルのまっすぐな目がエレナを射抜いた。それだけで、数々の死線を潜り抜けてきたはずの、師団長たるエドガーすら倒した少女を、動けなくさせてしまう。 別にヒカルの目に何か特別な力があるわけではない。ただ、本当にエレナを想っているから、瞳がそれを語っているから、今のエレナにはそれがひどく染み渡る。決意を揺り動かしてくる。 数々の兵士を殺してきた。様々な敵と戦ってきた。そんな深い経験を持つエレナが、たったひとりの高校生を前に何もできない。たった一撃、殴る事も、その手を振りほどく事さえもできない。 「エレナ。お前の力が要るんだ。オレじゃあダメなんだ。頼む、お前の力を貸してくれ」 「……私が、エドガーさんを傷つけたんですよ? 私のせいで、エドガーさんは死ぬかもしれないんですよ?」 「だったらその傷をお前が治せばいい。お前が死なせなきゃいい。たったそれだけだろ」 それ以上は何も言わず、ヒカルはエレナを強引に引っ張った。エレナも、抵抗はしなかった。 教会の一室、その扉を、ヒカルは蹴破るように開いた。 「ダイナスさん、アリシアさん!」 「ヒカル! それに……エレナ殿!?」 ヒカルに続いて入ってきた少女の顔を見て、アリシアは驚きをその顔に浮かべた。 アリシアとダイナスはすでに見抜いていた。エレナがエドガーを倒したという可能性を。そして、その通りならば、エレナが戻る事はないという事実もわかっていた。 もし仮に兵士団の誰かが見つけたところで、返り討ちに遭うとさえ思っていた。それでも探さねばならないから、捜索の指令を続けていただけに過ぎない。 そこにあったのは深いジレンマ。助けたい、けれど助けられない、そして、助けられる可能性もない。そう、思っていた。 なのに、そこにエレナがいる。偽者でもない、見る限りどう考えても本物としか思えない少女が。 最初に浮かんだのは戸惑い、次に浮かんだのは疑問。何故、現れたのか。どうしてヒカルは無傷なのか。そして何より、エレナがやったのではなかったのか? そしてそれは、アリシアの口から根本的な疑問として現れた。 「ヒカル、本当にエレナ殿……なのか?」 「ああ。エレナ、頼む」 ヒカルは強引にエレナを前に出した。エレナはたたらを踏むように前に出ると、アリシアを見上げた。 その顔を見た瞬間、疑問は氷解した。どのような経緯があったのかわからないが、今、目の前にいるエレナは本物だ。そして、微かな迷いを持ちつつも、エドガーを傷つけた者とは違う者が目の前にいる。 ならば答えは簡単。その僅かな迷いを吹き払えば、エドガーは助かる。 「エレナ殿、すぐにエドガーに回復を。通常の回復術ではエドガーの体力が持たないのです」 「でも、私――」 「エレナ殿。あなたでなければできないのです。お願いします」 ヒカルとはまた違った強い輝きが、アリシアの瞳にあった。揺れ動いていたエレナの心は、更に強く揺さぶられてしまう。 「エレナ殿」 そして、壁際から、ダイナスはエレナを呼んだ。エレナが視線を送ると、ダイナスは小さく微笑んだ。 「エレナ殿。今は、あなたが必要なのですよ?」 ふたりの言葉が、更にエレナを揺り動かす。そして、ヒカルが最後の一言を発した。 「エレナ。みんなが、お前を必要としているんだ」 ポタリと、石床に雫が落ちた。それはみるみる染み込んで、消え去る。そしてすぐさま、次の雫が落ちてくる。ポタポタと。 エレナは、泣いていた。静かに、声もなく。 わかっていた事。今はもう、彼女をその血筋だけで忌み嫌う者ばかりの世界ではないというのに。 ただ、それを確認するのは怖い。それがどれほど小さな確率でも、ゼロではなければ確かにある。そして、もしそうなった時、自分という存在が壊れてしまうであろう事もわかっていた。 ただの考えすぎなのに、その想いは消えない。自分という存在の根幹に関わる話であるだけに、確かめる事すら怖い。 しかし今、確かめた。そして、違うと言ってもらえた。その喜び、安心感、そういう諸々の感情がエレナを押し包む。感情は涙となり、流れ落ちた。 「――はい、わかりました。後は……任せて下さい」 そっと目元を拭い、エレナは言った。その目には確かな輝きがある。悲壮ではない、温かみに溢れた決意が。 「ああ、任せるよ。エレナ」 その目に向かって、ヒカルはそっと微笑んだ。もう、大丈夫。 |