朝日が目に染みる時刻。ヒカルは教会の長椅子の上で目を覚ました。 起き上がると、高い窓から早朝の日光が礼拝堂を照らしていた。周囲には人の気配がない。ヒカルは目をこすりつつ立ち上がり、礼拝堂の外に出た。 「ヒカル、起きたのか」 途端、声が右から飛んできた。横を向けば、アリシアが疲れの滲んだ笑顔を浮かべつつ、歩いてくるところが目に入った。 「アリシアさん、エドガーは?」 「大丈夫だ。エレナ殿の処置のおかげで、すでに危険な状態は脱している。まだ目は覚めないようだがな」 「そう、ですか」 「ダイナスとエレナ殿はエドガーの部屋にいる。会いたければ行くといい」 「……アリシアさんは?」 「私は少し眠る。なにせ、しばらく寝ていないからな」 ふわ、とあくびをひとつ残し、アリシアはヒカルとすれ違うように廊下を歩いていった。ヒカルは早足でアリシアが来た方向、エドガーの寝ている部屋へと向かう。 見慣れた木製の扉の前に到着すると、ヒカルは呼吸を整えるように深く息を吐き、戸を叩いた。 「どうぞ」 中からダイナスの声が聞こえる。ヒカルは緊張した面持ちで扉を開いた。 「やあ、ヒカル。起きたのか」 ベッドのかたわらに置いてある椅子から立ち上がり、ダイナスは笑顔を見せた。 その隣では、エレナが椅子に座ったまま床を見つめている。そこにはどこか思いつめたような表情があった。 「エドガーはもう大丈夫だそうですね」 「ああ、アリシアに聞いたのか。おそらくは大丈夫だろう。エレナ殿の回復術は並ではないからね。十日も休めば、完治するだろう」 そっか、と呟き、ヒカルはエレナの前に立った。 「エレナ、ありがとうな」 エレナはそっと顔を上げ、ヒカルを見つめた。 「……いえ、私は、許されない事をしました。お礼を言われるなんて――」 「許されない事?」 エレナはパチパチとまばたきをし、続けた。 「ですから、エドガーさんを……」 「その事なんだが」 そっとふたりを見ていたダイナスが、よく通る声で口をはさんだ。 「すでに兵士団に伝達してある。エレナ殿は意識不明のところをアリシア・アレンの手によって救出され、エドガー第一師団長は危機を脱出。エドガーに攻撃をしかけた何者かは国外に逃走したと思われる、とね」 エレナとヒカル、ふたりがはっと息をのみ、ダイナスを見つめた。見つめられたダイナスはイタズラっぽくウインクをした。 「どう、して?」 「エドガーが目覚めれば言うであろう事を私が代弁しただけだがね。なにせ、彼は女性を傷つける事は趣味じゃない」 「でも、私は――!」 「私は、何だい?」 問われて、エレナは黙り込んでしまった。ダイナスはそっと、呟くように語りかける。 「確かに師団長を半死半生の目に遭わせたという事実は、法に照らし合わせれば数年の牢獄入り、あるいは下手をすれば死罪となる。だが、我々にはエレナ殿が必要だ。それは、被害者たるエドガーも、私も、アリシアも、もちろんヒカル君も。皆がそう思っている。ならば、あえて罪を問う必要もあるまい」 「でも、罪は罪のはずではありませんか。人々がどう思おうと、罪は消えないのではありませんか」 「そーゆーもんか?」 重苦しい空気が漂うエレナとダイナスの間に、軽やかな空気が混じった。気軽な口調で話しかけたのは、もちろんヒカルだ。 「別にさ、エレナが罪を罪って思っているならいいんじゃないか? 牢屋とかも、要するに反省させるための場所だろ?」 悔い改め、罪を罪と自覚し、十字架を背負うなら。それは、牢獄で生きる事と何が違うだろう。 自由があろうと、何ができようと、心が縛られているのなら何もできやしない。牢獄で罪を罪とすら思わず、己の不始末だけを嘆くような人間と、外の世界で罪をしっかりと背負い、贖罪のために生きようとするエレナと、いったいどちらが罪を受け止めたと言えるだろう。 そんなもの、決まっている。贖罪は石と鉄格子の中でしかできない行為ではない。それ自体はどこでもできる。ただ、贖罪したいと思わせるためにその場所があるに過ぎない。最初から罰を受ける意思があるのなら、牢屋など必要がない。 「いいじゃん。エレナはもう悪かったって思ってるんだからさ。それじゃあ満足できないってなら、エドガーに聞いてみろよ。オレはエドガーとの付き合いなんか短いけど、たぶんエレナが牢屋で過ごす事は望まないってわかる。最初から、好きな奴に殴られたくらいで文句を言う奴じゃねーよ、エドガーは」 エレナは予想外の言葉に驚いたように呆けた。 「そういう、ものでしょうか?」 「そういうもんだ。お前が深く考えすぎなんだよ」 ヒカルはふっと笑う。その笑顔の前で、エレナの全身から力を抜けた。 一体、今まで何を気にしていたのだろうか。彼女のまわりは、こんなにも暖かい。まるで陽だまりのような、離れがたい居心地のよさ。それを甘受するのは簡単だが、それができないのがエレナの性分。そして、だからこそヒカルたちも許したのだ。 エレナは立ち上がり、ヒカルとダイナスの顔を当分に見つめ、そっと微笑んだ。 「私自身が罪を負うために、おふたりに見せたいものがあります。できれば、アリシアさんにも。一緒に、来て頂けますか?」 ダイナスとヒカルは互いに顔を合わせ、小さく笑った。そして、声を合わせて答える。 「「もちろん」」 コツコツと、石の階段を踏み締める音が高い天井に響く。魔法光を頼りに階段を降りると、エレナは突き当たりの扉を開いた。 「どうぞ」 促され、エレナに続いてヒカルたちも部屋に入った。中に入ったアリシアは、珍しげに周囲を見回す。 「このような部屋があったとはな……」 へえ、と小さく漏らし、ヒカルは尋ねた。 「アリシアさんも知らなかったんですか?」 「ああ」 短く答えつつ頷いたアリシアの陰で、ダイナスはぼそりと呟いた。 「そもそも、図書室にすら滅多に来ないだろうに」 「ダイナス、何か言ったか?」 「いや、独り言さ」 ちらりとダイナスを見たアリシアに対し、ダイナスは明後日の方向を向いて答えた。 一方、エレナは迷わず奥に進み、突き当たりの書棚から一冊の本を取り出した。ボロボロの外見は触れただけでバラバラになりそうだが、エレナがページをめくっても切れ端ひとつ落ちなかった。 「これは、長年に渡って封じられてきた禁書です」 「そんなものを見せていいのですか……などと聞くだけ無粋ですね」 そっとエレナは皮肉な笑みを浮かべ、ページをくる手を止めた。 「この本は教会本部にある原典を翻訳したものです。原典がところどころ欠けているために飛び飛びですが、この箇所。これがあるために、この書は禁書となりました」 「何と書かれているのです?」 問うダイナスに、エレナはためらいがちに答えた。本を読み上げる事によって。 「『――の一撃により、竜神はその身を焼かれた。灰となった肉体は、二度と蘇る事はなかった』」 「――――ッ!?」 淡々と、感情ない声が小さな地下室に響き渡る。ダイナスの額にシワがより、アリシアの目が見開かれた。ただひとり、ヒカルだけが冷静だった。 「つまり、すでに竜神様は……」 エレナは静かに頷き、 「ここに書かれている事が真実ならば、すでに亡くなられたという事になります」 エレナの顔には表情が浮かんでいないだけに、何を考えているのかわからない。そして、だからこそ、ヒカルにはその重要性が伝わらなかった。 「……それって問題なのか?」 ヒカルが問うのに、信じられないという面持ちでアリシアが答えた。 「問題も問題だ! 六竜神信仰の最も大事な部分は、竜神が人間を見守っている……竜神の加護という点だ。もし竜神が存在しないのであれば、信仰の基礎が崩れる事になる! 兵士団の士気は低下するだろうし、国民にも動揺が走る。そんなところを他種族に狙われてしまえば、簡単に落ちるぞ」 信仰の薄い日本人であるヒカルにとって、アリシアの言う事はいまいちピンとこなかった。だが、全く理解できない話でもない。要するに、心の支えがなくなるという事なのだから。 「だったら、そんな本なんか燃やしちまえばいいだろ? 何でそんなもんを後生大事に抱えているんだ?」 「どこかに魔法的要因があるみたいで、この訳本も原典も、焼くどころか、ページを破る事さえできないんです。仕方なく、教会は禁書と指定し、封じるしかありませんでした」 この世界にはないだろうが、今のエレナの顔は能面という表現が最も似合う。感情を押し殺したような、作り出された無表情がある。 エレナの表情は気にせず、ダイナスは尋ねた。 「それで、それ以外は?」 「それ以外、と言いますと」 ダイナスはふっと笑い、 「まさか竜神がいないかもしれない、というだけの事を教えるために我々を呼んだわけではないだろう? 何か、問題があるのでは?」 「……さすがです、ダイナスさん」 エレナはパラパラと違うページをめくった。やがて、目当てのページで手を止める。 「ここ。ここに、竜神様と“敵”が戦った場所が記されています。以前、ダイナスさんは仰いましたよね。ヒカルさんを召喚するほどの魔力は竜神様でなければありえないと。行ったところで何もないかもしれませんが、ここなら、竜神様にお会いする手がかりがあるかもしれません」 「でも、もう消滅してしまっていたら……」 エレナはアリシアに向かって首を振った。 「もう、無意味かもしれません。ですが、基本的に手がかりがない以上、可能性には賭けてみるべきではないでしょうか。仮に竜神様が亡くなられていたとしても、竜神様と対等以上に渡り合える何かの手がかりがあるかもしれませんし」 そこで、エレナはこの部屋に入って初めて表情を変えた。曇った表情は、悲しげな雰囲気を漂わせている。 「本当は、もっと早くに言うべきだったんですけどね。禁書の存在を他の人にお教えするわけにはいかず、黙るしかありませんでした。すみません」 ぺこりと小さな頭を下げる。その頭を、包み込むような温かさと共に手がなでた。 エレナが顔を上げると、ヒカルが笑っていた。 「謝る事かよ。可能性が出たんだろ? だったらむしろ、オレが礼を言わなきゃいけないくらいじゃねーか。なら、さっさと行こうぜ。その、竜神ってのが戦った場所にさ」 「……ええ、そうですね」 つられて、エレナも笑った。 ヒカルの温かさが、エレナを包み込む。全く意識していないのに、優しく温かく相手を包み込む言葉に、エレナは救われていた。その事実は、エレナすらも知らない。 「ただ、この場所、おそらくエルフ領なんです。危険もつきまといますし、今すぐに出発というわけにはいきません。色々と準備も必要ですから」 「となると、護衛が要るな」 そこでアリシアはニヤリと笑った。わざわざ口に出すまでもなく、言いたい事がわかる。ダイナスはちらとアリシアを見つめ、ヒカルに視線を移した。 「できれば私も同行したいところだが、エドガーが動けない以上、私が兵士団から離れるわけにはいかない。残念だが、今回は協力できないよ」 「大丈夫ですよ。アリシアさんはめちゃめちゃ強いし、オレだって少しだけど魔法が使える。それに、敵の領土だからってすぐに誰かと戦わなきゃいけないわけじゃない。ヤバきゃ逃げればいいんでしょう?」 わかっているじゃないか、とばかりにダイナスは笑った。 ヒカルはエレナに向き直り、ぐっと拳を握ってみせた。 「後は任せとけって。何とかしてくるよ」 「いえ、私も同行させて下さい。長旅になりますから、回復術の心得がある者はいた方が得です。それに、正確な場所は私しか知りませんし」 言われて、ヒカルは困ったように鼻の頭を掻いた。 「でもよ、教会はどうするんだよ? エレナがいなきゃまずいんじゃないのか?」 「教会の普段の仕事は私がいなくてもこなせます。何より、私はヒカルさんに協力したいんです」 ためらうヒカルの肩に、ぽん、と手が置かれた。ヒカルが振り返ると、真剣な表情のダイナスが立っていた。 ダイナスは、ヒカルにだけ聞こえるような小声で言った。 「行かせてやってくれ。エレナ殿もエドガーの件で責任を感じているんだろう。教会の方は私が手をまわしておく」 「……わかりました。だいたい、オレには反論する権利なんかないし」 そして、ヒカルは満面の笑みを浮かべた。 「んじゃ、よろしく頼むよ。エレナ」 「はい! よろしくお願いします」 ぺこりと頭を下げたエレナの顔には、久しぶりとすら感じられる、暖かな笑みが浮かんでいた。 |