風竜は中庭に降り立つと、ヒカルたちを降ろしてどこかへと飛び去っていった。ヒカルがラテューに聞いたところ、風竜は普段から上空高くを飛び回っているらしい。
 ラテューはヒカルたちを宮殿の中に案内した。宮殿は柱のひとつ、壁の一枚すらも細かな彫り物が施されている。いつ彫り込まれたものかは判然としないが、まるでついさっき彫ったように欠けのひとつも見当たらなかった。
 ラテューに案内されたのは、宮殿の奥にある大きな部屋。長い机が置いてあり、その左右には全部で八つの椅子が置いてある。
「誰もいねーな」
 ヒカルはきょろきょろと見渡しながら言った。
「最近、竜神が揃う事は少なくてな。それぞれにやる事がある」
「やる事なんて何かあるのか?」
「うむ、我ら竜神には自然界のバランスを保つという役目もある。特に人間が魔法を使えば、大なり小なりバランスが崩れるからな。その保持のために世界中を回っている」
「バランスが崩れる?」
 ラテューは知らないのか、と目線で物語りつつ答えた。
「魔法とは世界の法則を一時的に歪める技術だ。法則を歪めれば、その分のひずみが別の場所に現れるのは当然だろう。なに、人間程度の魔力ではさしたる問題も起きぬのだが、今はちょっと事情が違ってな」
「……昨日のあれの事、か」
 ラテューは返事をせず、長机の前に並ぶ椅子のひとつに座った。ヒカルたちも勝手にラテューに向かい合う席に座る。
「で。俺らをこんなとこまで連れてきて、どうするつもりなんだ」
「昨日も言った通りだ。新たに生まれるシーフ、それだけはなんとしても撃破せねばならん。そのためにはお前に力を得てもらわねばならない」
「つまりはあれか。修行をしろと。少年漫画じゃあるまいし、そんなんで間に合うのか?」
「普通にやれば間に合わん」
 ほら来た、とヒカルは小さく呟いた。
「つまーり、あれだろ? なんか命の危険はあるけど大きくレベルアップできる方法とか、そんなんだろ?」
「近いな。だが、命の危険はない。むしろ何の危険もなかろう」
「あん?」
 予想外の言葉に、ヒカルの目に疑問の色が点った。
 ラテューはごく自然な風に答える。
「簡単な事だ。我らはお前に魔法をひとつ覚えてもらいたい、それだけだ。ただし、ちと詠唱が長くてな。しかも、できればそれを詠唱破棄できるほどには慣れてもらいたい。が、先ほども言った通り、普通にやれば詠唱破棄など到達はできん。そもそも今のお前は、魔法矢すら破棄できぬだろう?」
「う……」
 今のヒカルは、魔法矢以外の魔法は使えない。それも当然、詠唱をしなければ発動させる事も無理だ。
 相当な慣れを必要とする詠唱破棄は、簡単な魔法矢レベルですら数年の修行を要する。まして、竜神特製の複雑な魔法となれば、どれほどの修行期間が必要か検討もつかない。
「仕方ありませんよ。ヒカルさんが魔法を覚えたのはごく最近の事なんですから。魔法矢が発動できるだけでも凄い事ですよ?」
「それはそうだろうが、我々が要求する次元はその遙か先、だ」
 竜神のくせにどこか人間臭いこの水竜は、やはり人間のように眉を八の字にして困惑を表現した。
「ごちゃごちゃ言ってないでさ、要するに何をすればいいのか単刀直入に言ってくれ」
 机に肘をつき、その上にアゴを乗せ。どうにもやる気が感じられない様子でヒカルは言った。
「そうだな。とりあえずは魔法の基礎訓練しかあるまい、と言いたいところだが、それよりも――」
 そこまで言いかけて、ラテューは口をつぐんだ。耳に手を当て、ぶつぶつと何かを呟いている。
 ヒカルたちが疑問に思いつつも黙っていると、ラテューの顔が急に青ざめた。
「どうしたんだよ」
 ヒカルが尋ねると、ラテューはやけに白っぽい顔でヒカルを見た。
「エルフが、全軍を率いて戦闘を仕掛けたとの連絡が入った」
 途端、ヒカルとエレナも青ざめた。

 テントの中で、ダイナスは机の上に広げた地図を眺めながらじっと考え込んでいた。
 と、テントの中に半ば走りこむようにして誰かが飛び込んできた。黄金色の髪を持つ剣士、エドガーだ。
「団長。戦況を報告します」
「ああ」
 ダイナスは地図を見つめたまま、エドガーに報告を促す。
 エドガーも気にせず、状況を頭で整理しつつ答えた。
「偵察に向かった第三師団の一部が全滅。その後を第三師団本隊と我が第一師団、および第四師団が受け継いで戦闘中です。が、エルフの士気が予想外に高く、苦戦を強いられています」
「……敵兵の数は」
「およそ師団ふたつ分、といったところでしょう。エルフの予想総人口からして、残る全勢力と思われます。が、相手の原因不明の闘志に押され、我々の方が不利な状況です」
「そうか」
 ダイナスは地図から顔を上げ、エドガーへと目線を移した。
「第二師団も加えて、何としても戦線を保ってくれ。これ以上は後退できない。ここを抜かれてしまえば一気にディラータだ。国内に残った第五師団だけではエルフを撃退できないだろうからね」
「しかし団長。相手の士気を挫かない限り、我々が負ける可能性も十分にありえます。そうなると戦線維持どころの話ではなくなります。せめてアリシアやエレナ殿がいてくださればいいのですが……」
 歯噛みするエドガーに、ダイナスは言う。
「ないものを望んだところで仕方ない。おそらくはエルフ領にも何らかの変化があるだろう。気付けば戻ってくれるさ」
「しかし、それではいつになるやら。下手をすれば間に合いませんよ」
「わかっているよ。だから、私も最前線に向かう。私がやられた場合、団は頼むよ、エドガー」
 ダイナスは背に負った剣に手をやりつつ、言った。その瞳には、生命を捨ててでもという覚悟がある。
 エドガーはふぅ、とため息をつき、答えた。
「やられた場合は考えないで下さい。我々にはまだ団長が必要ですから」
「そうか。じゃあ、全力で私を守ってくれ」
「僕は女性しか守らない主義なんですがね」
 言いつつ、エドガーは笑った。ダイナスも微笑み、けれどすぐに真剣な表情となる。
「行くよ、エドガー。盛り返すんだ」
「了解!」
 ふたりの剣士は、テントを飛び出した。その先に広がるのは、血色に染まった戦場。
 作戦も何もあったものではない。獣と獣が互いに生きるために喰らい合うような、凄惨な殺し合いの場だった。
 ここは、ヒカルがエレナたちと初めて会った、あの崖の近くだ。あの時、エルフと人間は戦っていた。そして今も、同じようにどこまでも広がる草原の各所で、エルフと人間が互いに生き抜くために殺し合っている。
 疾風の名を持つ風の剣士と、炎陣の名を持つ炎の剣士は、呪文を詠唱しつつ剣を引き抜き、その殺し合いの場へと駆けていった。

「じっとしている場合じゃねーんだろ!?」
 バン、と机を叩き、ヒカルは叫んだ。こめかみに青筋が走り、怒りと焦りで我を見失っている。
「叫ぶな。確かに時間は切迫しているようだが、今のお前が向かったところで意味はない」
 一方、ラテューは冷静そのものあった。報告を耳にした直後こそ焦りをその顔に浮かべていたが、今は元の冷静沈着な様子に戻っている。
「つったって何もしないでいられるわけねーだろ!?」
「ヒカルさん、落ち着いて下さい!」
 ヒカルの隣に座るエレナは、懸命にヒカルをなだめようとする。だが、感情に全てを任せている今のヒカルには、逆効果だった。
「これが落ち着いていられる状況かよ!? ほっときゃエルフも人間も、たくさんの人が死ぬんだぞ!?」
「その通りだ。だからこそ、慌てたり焦ったりしてはならない。我を見失い、目先にとらわれれば、最も大事な大局を見誤る事となる」
 ヒカルはラテューを睨んだ。けれどもその言葉に納得したのか、叫ぶのを止め、大人しく椅子に座った。
 エレナはようやく安心したようにヒカルから視線を外し、ラテューに向き直る。
「水竜様。仰る事は十分に理解できますが、ここで私達が待っていても戦いは続いてしまうのではないでしょうか」
「ああ。そして、この戦闘の目的はおそらく、シーフの原材料……すなわち、大勢の死だと思われる。だからこそ、無闇に行っても無意味なのだ。エルフは残存勢力の全てをこの戦闘に使用している。つまり、シーフの完成が近いという事だろう。だからこそ、ヒカルの力を引き上げる必要があるのだ。できる限り早く、けれど確実に、だ」
「そのために、この戦闘は見捨てろと仰るのですか?」
「そうは言っておらん。見捨てていい生命などあるはずがない。だが、少なくともヒカルは、シーフに対抗できない状況で戦線に向かうわけにはいかん、と言っておるのだ」
「それはいつだよ」
 表層的な怒りを押さえ、けれど内面には未だ怒りを内包しつつ、ヒカルは言った。
「いつ、戦えるようになるんだ。明日か、明後日か? そんなんで間に合うのかよ」
「それはお前次第だ。お前が感覚を掴めば問題ない」
 ラテューはヒカルからエレナに視線を移し、続けた。
「エレナ。お前は戦線に向かえ。修行する必要があるのはヒカルだけだからな」
「え……?」
 エレナは視線を泳がせた。泳いだ視線は、不安げなままにヒカルと捉える。
 ヒカルはエレナを見つめ、そっと言った。
「エレナ、頼む。オレもすぐに行くから。絶対に強くなって、シーフでもエルフ兵でも吹っ飛ばせるくらいになって帰るから。だから、少しだけ待っていてくれ」
 言って、ヒカルはラテューを睨んだ。
「これでいいんだろ。そんじゃあ、さっさと修行しようぜ。時間が惜しいんだから」
 ガタリと椅子から立ち上がり、ヒカルは不満げな調子で言った。
 その、横顔に。怒りと焦りと、今まで以上の決意と強い意志を持った横顔に。エレナは、呟いた。
「ヒカル、さん。私、待っていますから。絶対に、絶対に来てくださいね」
 エレナはヒカルを見つめている。ヒカルもまた、エレナを見つめ返した。
「安心しろって。オレは、約束は絶対に守る。まして、エレナとの約束ならなおさらだ」
「信じて、いいんですね」
「信じる者は救われるってヤツだ」
 エレナの瞳が、不安げに揺れた。
 兵士団の男よりも強く、教会の誰よりも優れた医療術を持ち、素晴らしいバランスと優しさを持つ、皆の憧れであるエレナ。
 彼女が行うなら、大抵の事柄は自信を持っていい。彼女が失敗する事など滅多にない。
 けれど、エレナは不安だった。ヒカルがちゃんと戻ってくるかどうか。これが、この瞬間が、今生の別れになるかもしれないと。そう、思えてしまうから。
 だからこそヒカルは、笑う。エレナを安心させたくて。彼女に、あらゆる不安をかけたくなくて。
 強くあらねばならない。エレナは、彼を庇ってくれた、彼の罪を背負ってくれた。だからこそヒカルは、彼女を庇いたい。彼女に不安を感じさせたくない。
 エレナにはいつまでも笑っていて欲しい。何の不安も恐怖もない世界で、争いも戦いもない世界で、笑っていて欲しい。そう思うから、ヒカルは、どこまでも強くなれる。
「エレナ・テスタロッソ。人間の戦線近くまで風竜が送る。我からも頼む、とにかく時間を稼いでくれ。我々には、時間が必要なのだ」
 不安げに揺れていたエレナの瞳が、定まった。そこには常と同じ輝きがある。
「わかりました。お願いします、水竜様」
「ラテューでよいぞ。様など、どうにも性に合わん」
 エレナは目を見開いて驚きを示し、そして笑った。
「わかりました、ラテュー様」
「……わかっておらぬな」
 ラテューは浅くため息をついた。
 誰からともなく、小さな笑い声が漏れる。それは、三人を温かく包み込んだ。
 笑い合えるとは、どれほど平和な事だろう。みんなで笑い合えるなら、争う事もないのに。エルフと人間は、分かり合おうとしない。
 エレナは立ち上がった。戦いの場に赴くため。
 ラテューは立ち上がった。悪魔を倒す手段を見出すため。
 ヒカルは歩く。誰よりも強くなるため。
 三者三様に目指すもののため、三人は部屋を後にした。



  
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