ヒカルはどさりと、大理石の床に倒れこんだ。全身は汗にまみれ、息が荒い。 それでも、と。ヒカルは全身に力を込めた。根性で立ち上がり、目に入りかけた汗を拭った。 「つ、続きやろうぜ」 「駄目だ。少し休め」 けれど、対するラテューは冷ややかに言った。 「大丈夫だ、まだまだ、オレはいけるから」 「駄目だ。休養も時には必要だ」 ラテューは強がるヒカルを突き放すように言う。 ヒカルはボロボロになりながらも、しかし反論した。 「だけどさ、世界規模で、大変なんだろ? ゆっくり、している、時間なんか、ないだろ」 荒い息を吐きながら、ヒカルはゆっくりと話した。もっとも、ゆっくりしか話せない状況だが。 ラテューは額に手を当て、浅くため息をついた。 「大変だからこそ、生半可な能力では戻れん。手早く、しかも確実に力を得るには、休養も不可欠だ。だから、休め」 「……ちッ」 舌打ちひとつ、ヒカルは再び床に倒れこんだ。 宮殿の一角に、広い部屋がある。ステンドグラス越しの光が差し込む部屋は、さしずめ教会のようだ。けれど、教会なら十字架なりご神体なりがある場所には、しかし何もない。それももっともで、神と呼ばれる彼ら、竜神には信仰するものがない。 「ちょうどいい。そのまま聞け」 「何を」 ヒカルは首だけをラテューに向けた。ラテューもまた、大理石の床に座った。 「お前にはこの戦いの起源を知ってもらう」 「この戦いって、エルフと人間の戦いの事か?」 頷き、ラテューは肯定を示した。 「それを知るのに何か意味があるのか? 知ったところで戦いがあるってのは変わらないだろ?」 「その通り。お前が戦いの始まった理由を知っていようといまいと、争いそのものが消えるわけではない。だからこれも、休憩時の暇潰しと思って構わん」 「なんでオレがお前の暇潰しに付き合わなきゃならんのだ」 ラテューはあごに手を当て、床を見つめた。少しばかり考えてから、答えを出す。 「そうだな。あるいは、単に聞いて欲しいだけかもしれん。それなら満足か?」 「聞いて欲しいだけ、ね。ま、それならいいだろ。勝手に話せよ」 ラテューは苦笑いし、口を開いた。 「この争いの発端は、エルフから人間への攻撃だ。当時、エルフは人間を恐れると同時に、嫉妬していた。その能力、すなわち、魔法に、だ」 「そういやエルフは魔法を使えなかったな。でも、そんだけでここまでの殺し合いになるのかよ?」 「もちろんだ。魔法という技術は、お前が思っている以上に重大かつ深い意味がある」 間を溜めるように息を詰め、そして、答えを出した。 「魔法とは、神の技術だからだ」 「あ? ああ、竜神も使うもんな。確かに神様の技術だ」 「そうではない」 首を横に振り、ラテューは続けた。 「竜神は、本来は生物ですらない。ただの魔力の結晶だ。我々の使う魔法とは、言うなれば身体の一部を切り離すようなもの。お前たちが使う魔法とは、根本的に異なる」 「お前、生物じゃなかったのか……」 「……そこはどうでもいい。問題なのは、魔法は人間にしか使えないという事、そして、魔法という存在そのものだ。ヒカル、魔法の定義は知っているか」 ヒカルは起き上がり、あぐらをかいた。 滴る汗が大理石の床を濡らすが、どちらもあまり気にしない。 「一時的にこの世のルールを歪める技術、だろ。何度か聞いたよ」 「その通りだ。人間は、一時的にしろこの世の決まりを変えられる。言い換えれば、新たな決まりを生み出すという事だ。では、ヒカル。神の定義は何だ」 「神の定義?」 腕を組み、うーんと唸る。けれど、ヒカルの頭では、その答えは導き出せなかった。 「わからん。つーか、定義なんて人それぞれじゃねーの?」 「そういう捉え方もあるだろうな。では、こう定義したらどうだ。つまり、『この世の決まりを作り出した存在』と」 「……つまり、お前は人間が神だって言いたいのか」 「察しがいいな」 ラテューは満足そうに頷いた。 「その通りだ。決まりを作った存在を神と定義するならば、魔法を扱う人間は間違いなく神だ。我々のような偽の神ではない、正真正銘、本物の神だ」 「んな無茶苦茶な。そんな事を言ったら、この世界は神様だらけじゃねーか」 「そうだ。この世は神が溢れている。神界、とすら言えるだろうな」 神である自覚のない神。それが、人間だと言う。 ヒカルには、その理論は理解できなかった。できなかったが、その言葉にはどこか……根源的などこかで、納得してしまうような雰囲気があった。 「エルフが恐れたのは、すなわち人間の神性だ。同時に彼らは、自分たちも神になろうと考えた。神を倒すという行動で、自分たちが神であると証明したかったのだな」 「んな、阿呆な理論で戦いが始まったのかよ……」 「阿呆なものか」 憤慨だと言わんばかりに、ラテューは鼻を鳴らした。 「連中にとって、神になるというのは夢であり、存在の意義だ。価値観が人間と異なるだけで、連中にとってはそれが全てでもある。そのために生命を懸けるのは当然とも言えるだろう」 「当然、か」 足を投げ出し、手を背後につき、ヒカルは天井を見上げた。 「オレには、わかんねーよ。生きるより大事な何かって何だよ。そんなの、オレには思い浮かばん。だってさ、生きてこそだろ? 死んだら何もかも終わりじゃないのかよ。どうして、死んででも叶えたいって思うんだ?」 「お前にもわかる時が来る。命を懸けるに値するものが、この世界には確かにある。生物はそれを守るため、時に生命を捨てられる。母鳥が子供を守るために自ら突撃するように、尊厳を守るために死地に向かう人間のように、生命を捨てる理由というものは、絶対に存在するのだ。人それぞれではあるが、な」 「生命を懸けてでも守るもの、か」 ごろりと横になり、ヒカルは呟いた。 やはり、納得できない。理解できない。したいとも思わない。 それでも、そういうものがあるのは、幸せなのかもしれないとヒカルは思う。 死んででも守りたいものがあるという事実。それがある人は、他の人よりも幸せなのかもしれない。 「いよっと!」 想いを振り払うように、ヒカルは勢いをつけて立ち上がった。 「やろうぜ、ラテュー。体術を覚えなきゃいけないんだろ」 「まだ基礎の基礎も覚えていないわりに、口ばかりは達者だな」 「うっるせい。覚えてないなら、覚えりゃいいんだよ」 「覚えているほどの時間はない。叩き込め!」 ラテューも立ち上がり、構えた。 その構えは流麗で、隙は全く見当たらない。だが、格闘技に関しては素人であるヒカルには、それすらも理解できない。 「だったら、行くぜ!」 それでもヒカルは走り出した。 知らないからこそ、恐怖もない。ただがむしゃらに前に進める。 雄叫びと共に、ヒカルはラテューに殴りかかった。 「なるほど、よくわかった」 木の椅子に足を組んで腰掛け、ダイナスは言った。 その正面にはエレナが、ダイナスの隣にはエドガーが座っている。 テントの頂点に近い部分では、魔法の光が揺らめいていた。 エレナは長く喋った分の渇きを潤そうと、水を口にした。 「しかし、とても信じがたい話ですね。エレナ殿のお話でなければ、とても信じられない話です」 「だろうね。だが、エレナ殿がその手の嘘を口にする可能性は皆無だ」 竜神に関する、嘘だけは。エレナは、絶対に言わない。 それがわかっているから、ダイナスもエドガーもエレナの話を信じる気になった。そうでなければ、竜神に助けられただの、竜神と化物が戦って竜神が負けただの、その化物がエルフの味方にいるだの、どれも信じるに値しない妄言にも等しい。 竜神という存在が本当に実在するという事も驚きに値するが、それよりも現実的な問題は、エルフに味方する化物の存在――シーフがいる、という事だった。 「これで、エルフの士気の高さも説明できますね」 「ああ。神を倒すほどの化物が自軍にいるんだ。勢いもつくだろうさ」 「ですが、どうしてまだ使わないんでしょう? 一気に投入すれば、戦線はひっくり返りますよ」 「それは、たぶん……」 水を飲んだエレナが、遠慮がちに言った。 「まだ、完成していないからだと思います」 「完成、していない?」 オウム返しに言ったエドガーに、エレナは頷いてみせた。 「シーフの原材料は、数多くの魂と聞きました。言ってしまえば、誰かが死ななければシーフは作れないんです」 「なるほど。それで先に戦闘をしかけ、完成させるつもり、という事か」 ダイナスは表情ひとつ変えずに頷くが、エドガーは忌々しげに舌打ちした。 「随分と性根の腐った輩を相手にしているようですね」 「ああ。だが、現実問題として、これは厄介だ。エルフが来れば迎撃せざるを得ない。だが、迎撃を続ければシーフが完成してしまう。まさに八方塞、というヤツかな」 「そんな呑気な台詞を吐いている場合じゃないでしょう、団長。敵はすぐにでもやって来るかもしれないんですよ?」 「わかっているさ。けれど、打開策がない。せめてシーフの居場所でもわかればどうにかなるだろうが、残念ながらその居場所はわからない。もちろん、捕虜に聞いたところで答えはないだろう。そもそも、知っているとは思えない。となると、我々にできる事は、攻めてくるエルフを倒すという事くらいだ。そもそも、そこに全戦力を投入するので精一杯だしね」 「他国の支援はないのですか?」 エレナが聞く。けれどダイナスは、ゆっくりと首を横に振った。 「無理だね。そもそもディラータ以外にはまともな軍事力というものが存在しない。各国の軍事力を結集させたものがディラータ兵士団とも言える。その状態で、支援があるとすれば教会本部くらいのものだが……」 そこで言葉を切り、ダイナスはちらりとエレナを盗み見た。エレナは、残念そうにうつむく。 「確かに、教会が動くとは思えませんね」 「ああ。教会はいつだって我が身が可愛い。そのために我々がいるとも言える。人間の守備の要、それが我々だ。現状の戦力だけで、なんとかするしかない」 「ですが団長。このままでは、いずれ押し切られてしまいますよ」 「それは……」 ダイナスが反論しようとした時である。テントの外から、けたたましい鐘の音が聞こえてきた。 「敵襲、か」 ダイナスもエレナもエドガーも、顔を上げて外の方を向いた。と言っても、窓があるわけでもなく、そこにはただ布地が広がるだけだったが。 『敵襲、敵襲! 山のように巨大な化物だ!』 外を駆け回る伝令兵の言葉に、三人は顔を見合わせた。 「まさか、もう……?」 呟くエレナの顔色は悪い。その脳裏には、最悪の想像がなされているのだろう。 「確認しましょう」 エドガーの言葉にふたりも頷き、テントを飛び出した。 司令部のテントは、小高い丘とも言える場所にある。草原を一望、とまではいかないが、かなりの広範囲を見渡せる場所だ。 「なるほど。あれが、シーフか」 遠くに目を凝らし、ダイナスは目を細めた。 日が昇りかけている。朝日が地平線から僅かに顔を覗かせる中、それはいた。 山と言うのは大袈裟だ。だが確かに、ダイナスたちが知るどんな生物よりも、それは大きかった。 黒い影が、一歩一歩、踏みしめるようにして歩いている。距離はまだある。だが、これだけの距離があっても、その獣からの殺意が伝わってくるような気がした。 その背後には、黒い絨毯が広がっている。各々、武器を手に持ち、この戦いを最後の戦いにすべく、闘志を燃やす兵たち。その士気は、今までにないほど高揚しているだろう。とても兵士団では、対応できぬほどに。 「全軍に指示を。彼らを迎撃する」 それでもダイナスは指示を出した。エドガーがすぐさま駆けてゆく。去り際に、エレナにウインクをするのすら忘れて。 勝ち目がなくても、戦わなければいけない。彼らが敗北すれば、その先に待つディラータ、そしてそれ以降に住む人間の、その全てが危険に晒される事態に陥る。そして、そうなった時、もう人間には対抗手段が残されていないのだ。 「ダイナス、さん……」 「大丈夫とは言わないよ、どう考えても危険だ。だが、我々にも希望がないわけじゃあない」 だろう、と言わんばかりに、ダイナスはエレナを見つめた。 エレナの脳裏に、ひとりの少年の顔と、その言葉が蘇る。 『オレもすぐに行くから』 何の根拠もないのに、少年はそう言った。 『絶対に強くなって、シーフでもエルフ兵でも吹っ飛ばせるくらいになって帰るから』 現状では女の子にも負けるくらいに弱いのに、それでも少年はそう言った。 『だから、少しだけ待っていてくれ』 そう言って、約束した。 エレナはぎゅっと拳を握った。汗ばむ手の平の感触をじっくりと味わい、そして、前を見据えた。 「――行きましょう。ダイナスさん」 「ああ」 エレナは歩き出し、その後をダイナスが随伴する。 彼は絶対に約束を守ってくれる。そう信じるから、エレナも絶望に立ち向かう。 獣の巨大な咆哮が、草原に轟いた。 |