シーフの前足が眼前のエドガーに迫る。そして、エドガーはまるで木の葉の如く容易に吹き飛んだ。
 エドガーは地面に激突する寸前に、全身でその威力を殺し、着地して走り出す。そのすぐ後をシーフの爪が通り過ぎた。
「助かります、団長!」
「無茶はするな!」
 エドガーは、シーフに攻撃されて吹き飛んだわけではなかった。ダイナスが直前に唱えた魔法に弾かれたのだ。
 シーフの一撃を喰らえば紙のように切り裂かれる事は容易に想像がつく。そうなる前にと、ダイナスは魔法でエドガーに攻撃をしかけたのだ。
「ヤツの顔面は見えない障壁で守られている! 目も鼻も口も、攻撃しても無駄だ!」
 シーフと唯一の戦闘経験を持つアリシアが叫んだ。
 生き物にとって、目や鼻、あるいは口内など、鍛えられない場所はどれほどの怪物でも弱いままだ。故にそれがどれほど危険な生物でも、そこを攻撃すれば確実にダメージを与えられる。もっとも、逆上してより危険になる場合も多々存在するため、褒められた戦法ではないのだが。
 攻撃が通用しない事に業を煮やしたエドガーが顔面を狙ったのは無理からぬ話だ。だが、戦闘を行うためだけに生まれたシーフには、弱点などなかった。
 顔面は常に強力な魔力フィールドに覆われている。対物、対魔、どちらにも優れた高性能の壁だ。
 もちろん、毛皮に覆われた部分を攻撃するよりはよほど弱い。そちらなら、万に一つの可能性がなくもないと言えるかもしれない。けれど、それを試すには、顔面はあまりにも危険すぎる場所だった。なにせ、ほとんど反撃して下さいと言っているようなものなのだから。
 要するに、四人にはシーフを倒す手段など皆無なのだった。
「あれー?」
 と。そこに、その殺し合いの場に、なんともそぐわない間抜けた声が聞こえた。
「まだ生きていたのか、あんた。確かギルと一緒にいた人だろ?」
 反射的に全員が声の方を向いた。あの、意思があるのかどうかも定かではないシーフでさえ。
 そこには銀色の手甲で腕を覆った、黒髪の青年の姿があった。滲み出る雰囲気は老齢のそれだが、外見はそれとは裏腹に若々しく、なんともアンバランスな、見ているだけで不安にすらなりかねない空気をまとった青年。その、名は。
「メイ、か」
 額に眉を寄せ、アリシアはその名を呟いた。
「お、覚えていたのか。その通り、滝澤メイだよ。覚えなくてもいいけどさ」
 張りのない、若々しいのに枯れ果てたような、奇妙な声がした。
 青年の名前を耳にし、エレナは驚愕に目を見開いた。これ以上は、ないほどに。
「ま、さか……あなたが、メイ!?」
「なんだ、オレを知っているのか?」
 青年はいぶかしげにエレナを見つめた。その様子は、ここが戦場である事を忘れてしまいそうですらある。
 戸惑うエドガーとダイナスを尻目に、エレナはただ、メイだけを見つめた。
「では、まさか……あ、あなたが、竜神様とシーフの戦いを記録した張本人?」
 瞬間、あ、と声が通った。それがアリシアの発したものと理解するまでに、当人すら数秒を要した。
「ああ、あの本を読んだのか。つーか、あれって人間の国にあったんだな。どーりで見つからないはずだ」
「そ、それじゃあ、あなたが、“先代”の召喚されし者?」
「先代? ああ、新しいヤツが来たんだっけ。そうだよ。オレが竜神に召喚されし者。竜神の使徒、だ」
 物凄く重要な事なのに、青年はこともなげに言った。まるで、世間話をするように。
 実際、それは青年にとってどうでもいい事だった。太古の昔、どうしてこの世界に来たのかなど、青年にはもうどうでもよかった。青年にとって大事な事とは、ただひとつ。計画が成功するか否か、それだけだ。そして、その瞬間は、もう目の前まで近付いている。
「そういうあんた、ハーフだろ? エルフと人間の」
 青年はエレナを指差した。反射的にエレナが頷くと、青年は口の端を持ち上げた。残酷な笑み。そう、誰もが思うような、根源的な不快感を煽る笑い。とても若者にはできない、できるはずもない、そんな笑みだった。
「フェンリル!」
 青年はシーフに向かって叫んだ。途端、シーフはまるで忠実な犬のように居住まいを正す。
「その子、喰っちまえ。それでたぶん、完成だから。エルフの魔力に人間の神秘性。完璧だ」
 シーフが頷く。その言葉の意味は、四人にはすぐに理解できなかった。目の前の青年の姿があまりにも異質で、その言葉があまりにも見た目にそぐわなくて、だからこそ理解が遅れた。
「エレナ殿!」
 その言葉の意味に、最も早く気付けたのがエドガーだった。反射的とも言えるスピードでエレナを突き飛ばす。
 丁度、そこに。
 シーフの爪が、振り下ろされた。
「エドガーッ!!」
 誰かの悲鳴が、草原に響く。
 鮮血が、草花を染めた。

 ヒカルは利き腕である右手に、手渡されたガントレットを装備した。
 銀製のガントレットには、優美な竜神の姿が彫り込まれている。そして、それを囲う六つの宝玉が、六角形の体をなしていた。
「これがドラゴンズ・ガントレット?」
「その通りだ」
 ヒカルは慣れない装備の具合を確かめるように右手を握ったり、開いたりと繰り返した。その様子を眺めながら、ラテューは口を開く。
「その装備は、攻撃、防御、補助と、全てに通ずるアイテム。同時に、竜神の使徒である証でもある」
「竜神の使徒って何だよ」
 ガントレットから目を離し、ヒカルはラテューへと視線を向けた。
「竜神の使徒とは、我ら竜神に認められし者の事だ。たとえば、お前の先代。あやつも使徒だった者だ」
「今は使徒じゃねえ、と」
 それに、ラテューは重々しく頷く。
「では、最後の儀式に入る。それさえ終われば、お前も最低限の戦闘能力を有するだろう。本当ならもう少し時間を使って鍛えたいのだが……」
「ごちゃごちゃした能書きはいいよ」
 ラテューの言葉を遮り、ヒカルは目の前で手を振った。
「要するに、オレがそのメイってヤツを倒せばそれでいい。そして、そいつを倒せるのはオレだけ。だから、オレがやるしかない。そんだけだろ?」
「その通りだが、相手は百戦錬磨の戦士でもある。いかに魔力の容量と魔法で上回ろうと、容易に勝てる相手ではない」
「容易かどーかなんて聞いてないよ。勝つしかない、なら、相手の強さなんて関係ない。相手が強かろうと弱かろうと、絶対に勝つ。そんだけだ」
 ヒカルはそれを、なんでもないという風に言った。その姿にラテューは目を細め、小さく呟いた。ああ、呼んでよかった、と。
「じゃあ、とっととやろうぜ。時間、ないんだろ」
「もちろんだ」
 頷き、ヒカルは竜神と共に宮殿の中庭に出た。
 そこには、四つの影が鎮座していた。どれも相応に巨大な竜の姿。それぞれに全く異なる姿でありながら、けれどそのどれもが、常識から外れたような存在感と、どこか美しいまでの神々しさを持っていた。
「待たせたな」
 水竜が一同に声をかける。一同は、頷く事すらしなかった。
 ヒカルは竜たちの中心に立った。それを囲むように、竜神たちは所定の位置につく。そして、ラテューもまた、竜神の姿となった。
 ひとりの人間と、それを囲む五体の竜。その光景は、まるで一枚の宗教画のようですらある。実際にこれを目の当たりにしても、普通の人間にはこれが現実の光景と理解できないだろう。それほどまでに、この光景は現実から離れすぎていた。
『行くぞ』
 ラテューが全員に声をかける。今度こそ、竜神たちは頷いた。
「ひとつ、いいか」
 その前に、ヒカルが竜たちを見渡して言った。返事を待たず、一気にまくし立てる。
「あんたら、どうしてそこまでするんだ。あんたらには関係のない話だろ?」
 それに答えたのが誰か、ヒカルにはわからなかった。頭に響く、腹にのしかかる、そんな重苦しい声が聞こえた。
『我らは竜神。この世界そのもの。世界の崩落を防ぐ者。争い続け、世界の荒廃を招くわけにはいかぬのだ』
「……そっか」
 呟き、そして、ヒカルは笑った。心の底から、声を出して笑った。
「いいぜ。あんたらの力、オレが使いきってやる。そして、あんたらの望む通り、戦争を止めてやるよ」
『頼んだぞ』
 竜神たちは目を閉じた。それにならうように、ヒカルも目を閉じる。
 宮殿の中庭は、光に包まれた。まるで太陽がそこにあるかのような、命の輝きが、中庭から世界を照らす。
 光が収まり、ヒカルが目を開くと、そこにはヒカルだけの姿があった。反射的にヒカルは右腕を見た。
 ガントレットの宝玉は、すでに五色の強い輝きと、一色の薄い輝きとに彩られている。それは、どんなものよりも、確かに美しかった。
「……任せろ」
 そして、ヒカルは走り出した。戦場に向けて。自分を待つ、人々のいる場所へ。

 エレナはエドガーを抱き、大きく跳び退った。それを庇うように、アリシアとダイナスが走る。
「エドガーさん、エドガーさん!」
 呼吸が荒い。すでに顔色は白かった。どんどんと、止めようのない出血が続く。
「エドガーさん!」
 エレナはエドガーの身体を草原に横たえると、両手をかざした。
 エレナの両手が青く光る。それをせせら笑うかのように、メイの笑い声が響いた。
「無駄だよ。どうせすぐに死ぬ。いいじゃないか、これは戦争なんだ。人のひとりやふたり、こだわってどうするんだよ」
 エレナは手をエドガーに向けたまま、涙に濡れた瞳をメイに向けた。その中には、消えようのない炎が燃え盛っている。
「あなたは、そうやって人を傷つけてきたんですか」
「ちょっと違うな。オレはオレの目的を優先させただけだ。その結果、たまたま他の連中が死んだに過ぎない。別にそいつである必要もない。誰でもいいんだ」
 エレナの手を彩る光が、一段と強まった。
「あなたには、生命の尊さが理解できないんですか」
「何を言ってるんだか。あんただって肉を食べるし、魚を捕まえるだろ? それと同じさ。オレにとって、目的ってのは生きる理由だ。誰かを殺さなきゃ達成できないのなら、オレは喜んで誰でも傷つける。それがオレの、オレなりの覚悟だ」
 彼は言っている。自分の行いは、生きるためのものだと。
 生物は生きるため、他者を犠牲にしなければならない。草食獣は草木を食べ、肉食の獣はそれらを食べる。そして人間は、それら全てを食べる。けれども時に、人間はそれらに食べられてしまう。
 食物連鎖と呼ばれる、世界のルール。生きるためには誰かを殺さねばならず、それは別に誰でも構わない。
 彼にとって、メイにとっての戦争とは、そういうものなのだ。生きるための手段。それが結果的にどれだけ多くの人を傷つける事になろうとも、彼はそうしたい。だから、そうするのだ。
 それを一概に間違っているとは言えない。草木を踏みにじり、動物を喰らう行為は、責められるべきいわれはないのだから。
「……それは、詭弁です」
 けれども、エレナはそう言った。それら全てを知っていて、それでもなお、そう言えた。彼女にとって、それは譲れなかった。
「あなたにとって、戦争は生きる手段かもしれません。それは、私にはわからないし、わかりたくもない。けれど、それが生きる手段だからと言って、無差別に、無作為に、いくらでも殺していいというわけではありません」
 魚を獲り過ぎれば、魚はいなくなる。
 動物たちが欲望の赴くままに生き続ければ、世界の資源は枯渇する。
 そのための食物連鎖。誰かが力を持ち過ぎてはならないという、神様の決めたルールなのだ。
 メイの行いは、その連鎖を破壊する行い。バランスを崩し、世界を崩壊へと導く可能性すらも孕んだ、危険な行為だ。それを彼は理解していない。
 あるいは、理解しているのかもしれない。ただ単に、その現実から目を背けているだけで。
 真相がどちらにあるのかは、わからない。
「メイさん。私は、あなたを認めません。あなたのような存在を、許すわけにはいきません」
「そうかい。別に許しなんて欲しいと思った事はないよ。オレはオレのやりたいようにやるだけさ」
「それが、許せないと言っているんです」
 メイの目が細くなる。その視線が、危険な色を帯びていく。
「許せなきゃ、どうするって言うんだい」
「あなたを、倒します」
 エレナはきっぱりと、そう口にした。決意に満ちた、静かな迫力を持つ声だった。
「はは、馬鹿か。あんた程度に、オレが倒せると思っているのかよ? シーフの一匹も殺せないようなあんたが? オレを馬鹿にするのもいい加減にしてくれよ」
「私が、なんて言っていませんよ」
「――は?」
 そしてエレナは、強い笑みを浮かべた。過去にとらわれていたエレナからすれば、考えられないほどの強い輝きを持つ笑みを。
「私が信頼する騎士様が、あなたを倒します。その人は本当に弱くて、力もないし、魔法だって下手だし、精神的にも脆い人ですけど。けれど真っ直ぐで、生命の大切さを知っているんです。そして、その人は、あなたなんかには絶対に負けない、信念がある」
「はッ! 誰だよ、それ。そんなヤツがいるのか? どこに?」
「気付かないんですか?」
 エレナの視線が、ふとメイよりも遙か遠くに注がれた。メイも、後ろを振り向く。
「なッ――!?」
 普段、常に余裕の態度を帯びていたメイからすれば、極端なまでに驚きを示した。目を大きく見開き、口はぽかんと開いている。
 空を文字通り飛んで、人影が近付いていた。それは人間にはありえない速度で飛んでくると、メイの前に降り立った。
「よう。あんたが滝澤メイか?」
 少年の周囲を和毛にこげが舞う。天使の背で白く輝くという、翼を覆う羽が。
 少年は幻想的な光の中で、まさに光のように笑っていた。
「誰だよ、あんた」
 メイは焦りすら含んだ声で、そう聞いた。
「オレ? オレは、ね」
 少年は堂々と胸を張り、少し伸びた黒髪を払うように顔を振った。
「橋本ヒカル。現役高校三年生!」



  
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