ヒカルが教会のエレナの部屋を訪れると、彼女は書類の山に埋もれていた。
「エーレナ……って、うお? こりゃすげーな」
 エレナは書類の山からひょこりと頭だけを覗かせた。訪問客がヒカルだとわかるやいなや、その顔に愛想笑いではない笑みを浮かべる。
 それが、ヒカルの胸に突き刺さった。
「ヒカルさん。すみません、お茶もお出しできない状況で……」
「ああ、いいよ。それよか、いつなら少し話ができるかなって思ってよ」
「少しなら今でも構いませんが、長くなりますか?」
「いや。話そのものは簡単だ」
 言い、ヒカルは覚悟を決めた。
 エレナにもどこか真剣な調子が伝わったのか、席を立つと応接セットに座りなおした。
 勧められるまま、ヒカルもエレナと向かい合う位置に座る。
「それで、どうしたんですか?」
「ああ、いや、報告みたいなもんだ」
「報告、ですか?」
 ヒカルは頷いた。
 言わなければいけない。言わなければ、彼女を更に苦しめてしまう。それは、ヒカルにはできない。
「オレ、さ。そろそろ、帰らなきゃいけないんだ」
「帰る? ダイナスさんのお宅ですか?」
「いーや。オレの世界に、だ」
 一瞬、エレナはヒカルが何を言っているのか理解できないように、ぽかんとした表情を浮かべた。
 すぐに息を詰まらせ、顔を紅潮させる。
「そ、んな! そんなのって!?」
「仕方ないだろ。オレはこの世界の人間じゃないんだ」
「こ、こちらに……こっちの世界にいられる方法はないんですか!?」
「召喚魔法はお前の方が詳しいだろ?」
 エレナはぶんぶんと頭を振り、何かを考えるように爪を噛んだ。
 ヒカルは何も言わなかった。ギルの台詞ではないが、彼女自身が答えを出すのを待っていた。
 どれくらい、そうしていただろうか。一瞬のような、永遠のような時間。
 それが過ぎた後、エレナは目元に涙を浮かべていた。
「……どうしようも、ないんですか」
「ワリィな。やっぱオレ、泣かせちまったか」
 エドガーと約束したんだけどな、などと呟く。ヒカルは至極、冷静だった。
「エレナ。オレが言える事、色々と考えたんだけどさ、やっぱなかった。慰めとか、そういうの苦手だからさ。だけど、これだけは言うぜ」
 息を溜め、ヒカルは思い切り言った。
「ありがとうな。オレ、エレナにすっげー世話になった。まだ何にも返してないのに、もう行かなきゃいけないってのは辛いけど、さ」
 エレナはとうとう、涙を流した。ぽろぽろと大粒の涙を流し、しゃくりあげながらも、エレナは言葉を紡ぐ。
「い、いえ。私、たちこそ、大切なものを貰いました。ヒカ、ヒカルさんの、おかげ、です」
 ヒカルは泣きそうな顔で、けれども笑った。
「そう言ってもらえるとありがたいな」
 エレナは強引に涙を拭き取り、じっとヒカルを見つめた。
「……いつ、なんですか?」
「限界まで粘って、たぶんあと三日くらいだ」
「たった、三日――」
 自分の言葉を自分で否定するように、エレナは首を振った。
「いえ、まだ三日もあるのですね」
「ああ、それで、明後日にもこの国を出ようと思っているんだ」
 何故、とエレナが目で問いかけてくる。その瞳は、ヒカルの胸をかきむしった。
「最後は、やっぱあの場所がいいんだ。オレが初めてこの世界で立った場所。オレが、エレナと出会えた場所。そこに行こうと思ってる」
 徒歩で向かえば一日程度の距離。ヒカルが最後の最後を飾るに相応しいと思えた場所は、そこしかなかった。
「そう、ですか。それじゃ、私も行きます」
「止めておいた方がいいんじゃないのか?」
 行ったところで、辛いだけだから。
 旅路の果てに待つのは別れのみ。そうわかりきっている短い旅路に、エレナを同行させるのは、ヒカルには辛かった。
 それがわかっていても、エレナは首を横に振った。
「最後まで、一緒にいさせて下さい」
「だけど……」
「一緒にいさせて下さい」
 有無を言わせない強い調子。仕方なく、ヒカルは頷いた。
「じゃあ、一緒に行こう。最後まで」
 エレナもまた、頷いた。

 翌朝。ヒカルとエレナは、ディラータの南門にいた。
 すでに門の修復はほとんど終了しており、見た目にも綺麗になっている。
 戦いの爪痕は、徐々に消えていく。人々の記憶からも薄れていくだろう。
 それで構わないかもしれない。思い出は大切なものだ。けれど、過去に縛られた者には未来がない。
 ヒカルは、久しぶりに制服に袖を通していた。この服を前に着たのは、この世界に来たばかりの頃。それが、遠い昔のように感じられた。
「お別れ、だな」
 見送りに来たダイナスは、感慨深げに呟いた。
「寂しくなるな……」
 アリシアもまた、瞳を曇らせる。
 そんな様子のふたりに、ヒカルは笑いかけた。
「アリシアさんにはダイナスさんがいるじゃないですか」
「こいつは頼りにならない」
「そうですか?」
「……そういう事にしておけ」
 ヒカルはくすくすと笑いながら、はい、と答えた。
 ヒカルは姿勢を正すと、ふたりに向かって深々と頭を下げた。
「お世話に、なりました」
「当たり前の事をしただけさ」
 頭を上げ、ヒカルは笑う。そして、軽く手を振りながら、ふたりに背を向けた。
「――さようなら」
「ああ、さよならだ」
 ヒカルの言葉に、アリシアが答える。ダイナスはそっと頷いた。
 名残惜しげにふたりの姿を眺め、けれどそれでも、ヒカルは前を向いて歩き出した。
 ふたりの後姿が見えなくなるまで、ダイナスもアリシアも、一言も話さなかった。
 ふたりの姿が門の向こうに消えたところで、アリシアは口を開いた。
「世話になったのはどっちなんだか」
「そうだな。我々は彼の生活を守った。そして、彼は我々の生活を守ってくれた。人間同士の関係というのは、案外とそういうものなのかもしれないな」
「支えあい、か」
 アリシアは自嘲的な笑みを浮かべた。
「お前が言うと違和感があるのは何故だろうな」
「何故だろうね」
「……アリシア」
 急に真剣さを増した声で、ダイナスは言った。アリシアが思わず振り返ると、ダイナスの目が真っ直ぐにアリシアを射抜いた。
「アリシア、私と――」
「却下だ」
「……アリシア。まだ何も言っていないんだが」
「どうして私がお前と何かをせねばならない」
「アリシア、そんなに冷たい事を言わないでくれないか」
「却下だ」
 ダイナスをひとり残すように、アリシアは門に背を向け歩き出した。その後を、ダイナスはため息混じりについて行く。
「アリシア・アレン。もう少し素直になったらどうだー?」
「お前が私より強くなったら考えてやる」
「それはちょっと条件が厳しすぎると思わないかー?」
「最低条件だ」
 すたすたと歩くアリシアの背中を眺めながら、ダイナスはまたため息をついた。
 けれどその顔は、呆れと優しさに満ちていた。
「待ってくれ、アリシア。せめて一緒にいさせてくれ」
 アリシアは振り返り、薄く笑った。
「いさせてくれ、じゃないと言っているだろうが。お前が私のところまで来い。今の私は、全力で走りたい気分だが、な」
 アリシアは突然、走り出した。ダイナスもまた、慌ててその後を追う。
「アーリシアさーん。ちょっと早すぎですよー?」
 ダイナスの言葉に、アリシアは笑いで答えた。
 明るい声が城下町に響き渡る。今のこの町には、それが何よりも似合っていた。



  
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