ディラータを出て一日。野宿の後、ヒカルは目的の場所にたどり着いた。 数々の戦闘が行われた、血生臭い草原。一見すると平和な草原に見えるが、よくよく見てみればあちこちに戦いの傷跡が見受けられた。 「ここが、オレがこの世界で初めて立った場所なんだよな」 ヒカルは草原を感慨深げに眺めた。始まりも終わりも、全てここだった。 「そして、私とヒカルさんが初めて出逢った場所でもあります」 付け足すように、エレナは言った。 草原を駆け抜ける風は優しい。暖かい空気は、立っているだけで汗ばむほどだ。どこか、日本の夏を連想させた。 「そういや、日本は夏だったんだよな……」 思い出したように、ヒカルは言葉を漏らした。夏休みという言葉が、遠い昔のように感じられた。 ふたりは出会いの場所でもある、崖の上に向かった。そこからは、草原が一望できる。 その場所に並んで座り、ヒカルはエレナに色々な事を話した。 学校の事、友達の事、イベントの事、自分が住んでいた町の事。こっちに来て思った事、出逢ったもの、経験した事。話す種は尽きなかった。 エレナもまた、色々な事を話した。 教会の事、両親の事、兵士団の事。料理の事、格闘技の事、魔法の事。ヒカルと出会って変わったもの、成長したもの。彼女もまた、話す種は尽きなかった。 日は段々と傾いていく。ヒカルとエレナは、ただひたすらにお喋りを続けた。 ふと気付けば、すでに日は赤くなりはじめていた。 「……そろそろ、だな」 地平に向かって降りていく光球を眺めながら、ヒカルは言った。 エレナは黙って、ヒカルの服の裾を掴んだ。ぎゅっと、絶対に離さないと言わんばかりに。 「どうして、お別れしなければならないんですか?」 「オレはそういう条件でこっちに来たからな」 ヒカルはそっとエレナの頭に手を置いた。エレナは、身体をヒカルに預けるように傾けた。 「私、教会も何も要らないです。ただ、ヒカルさんにいて欲しい。ヒカルさんがいなくなるなんて、嫌です」 「そんな台詞、嘘でも吐いちゃいけねーよ」 「嘘じゃありません!」 ヒカルを見上げるエレナの瞳は、濡れていた。 「嘘じゃないなら、なおさら駄目だ」 ヒカルも負けじとエレナの瞳を見返した。互いの瞳に写る自分の顔が見えるほど、ふたりは近かった。 「この世界には、まだまだお前を必要とする人がいくらでもいる。お前は、オレがいなくたって強く生きなきゃいけないんだ」 「どうして、ですか? 私はもう、誰かに必要とされなくても構わない。他の全てより、ヒカルさんと一緒にいたい。ずっと、ただ隣にいてくれるだけでもいいんです。ただ隣で笑ってくれるなら、私は満足ですから……」 ヒカルは薄く笑いを浮かべ、呟いた。 「お前ってさ、まるでギャルゲのヒロインだよな」 「……?」 「可愛くて優しくて、料理も上手くて、一途で頑固で、どっか馬鹿だ。お前みたいなのが現実にいるなんて、信じられねー」 あまりにも理想的な少女だった。彼が、自分には相応しくないと思えるほどに。 「なんで、そこまでオレを必要とするんだ?」 ヒカルの目が、細くなった。少し怖いほどの真剣さを持った、強い目がエレナを見つめている。 「いいとこが多すぎる。けど完璧じゃなくて、少し抜けている。そんなお前なら、必要としてくれる人なんていくらでもいるだろうさ。なのに、どうしてオレなんだ?」 ヒカルは、そこで息を止めた。言いにくい事を、けれどきっぱりと言う。 「オレが、アルフレッドに似ているからか?」 「違います!」 ぶんぶんと首を横に振り、エレナは必死に否定した。 「アルフさんは、確かに私の恋人でした。ずっと、忘れられませんでした。過去に縛られて、現在の大切なものさえ捨てようとしていました。それを拾って下さったのは、ヒカルさんなんです。私は、アルフさんに似ているからヒカルさんが好きなわけではありません。ヒカルさんがヒカルさんだから、私はヒカルさんを必要としているんです」 長い言葉を、エレナは一息に話した。それだけ、心の底から思っているという雰囲気が伝わってくる。 「エレナ」 答えるように、ヒカルは首を横に振った。 「やっぱり、それじゃあ駄目だ。お前は、今度はオレに縛られようとしている。オレを欲するあまり、周りが見えなくなっている」 「そんな事、ないです」 「あるよ。この世界にお前がどれだけ必要な存在なのか、お前はわかっているのか?」 エルフと人間の間に続くであろう確執。 戦争を欲していた、教会の古い体制。 それらを変える立場にいるのは、人とエルフの血を継ぎ、教会でも立場のある者。すなわち、エレナが最も相応しい仕事なのだ。 他の誰かでもできない仕事ではないかもしれない。けれど、適任なのは。誰よりもその仕事に相応しいのは。それは、エレナしかいないのだ。 「エレナ。オレの事、忘れろなんて言わない。忘れられたらオレだって寂しいし、さ。でも、お前はオレに縛られちゃ駄目だ。お前は、もっと上に行け。オレは、ここで終わりだけどさ。お前は、もっともっと上があるんだから」 ヒカルはエレナの頭をなでた。大人が聞き分けのない子供に言い聞かせるように、一言ずつ、はっきりと口にする。それらの言葉の全てが、エレナの胸に深く沈んでいった。 「飛んでけよ、どこまでも。オレは飛べないけどさ、お前は飛べるんだから。こんなとこで悩んじゃ駄目なんだ」 「……どうして、ですか」 ヒカルの胸元に、エレナは強く顔を押し付けた。ヒカルは、そっとその背に手を回し、抱きとめてやった。 「どうして、どうして私ばっかり? 飛びたいなんて望んだ事は一度もなかった。ただ、当たり前の幸せだけを望んでいたのに。なのに、どうして私にはそれがひとつも叶わないんですか?」 「安っぽい言葉で言うなら運命、なのかな」 エレナを抱きとめる手に、力がこもった。 「オレさ、勉強ができるわけじゃないから、上手い台詞は思いつかない。こんな時に何を言ったらいいのか、なんて知らない。でも、これだけは言える。お前は数少ない、飛べる人間なんだ。他の大勢の人たちが憧れる空を、飛びまわれる存在なんだ。だから、飛ばなきゃいけないと思う」 「どうして、ですか――」 最後の言葉は、風に流れて消えていった。エレナも、答えを欲していたわけではないだろう。 夕陽が、ふたりを紅く染めていた。空は青から蒼、そして藍色へと近付いている。もう、刻限は間近だった。 ヒカルは、今までよりも強くエレナを抱き締めた。その感触を、ふたりに残すように。残り間もない時間を、強く握り締めるように。 しばらく、そうしていた。風は、少し冷たくなっていた。 やがて、ヒカルはそっとエレナを離し、立ち上がった。 「……エレナ。お別れ、だ」 寂しそうな、悲しそうな。それでいて笑っているような。例えがたい表情で、ヒカルは言った。 エレナは、ただ静かに泣いていた。頬を涙が伝っていく。止めようのない涙が、流れていた。 「じゃな、エレナ。世話になったよ」 「ヒカル、さん――」 「……そだ」 ヒカルはポケットに手を突っ込んだ。そして何かを取り出すと、それをエレナの手に握らせた。 エレナがおそるおそる手を開くと、手の平にすっぽりと収まる大きさの見慣れないアイテムがそこにあった。 「あの、これは?」 「それか? 携帯電話っつってな。ま、この世界じゃお守りみたいなもんだ」 「お守り……」 電池の切れたそれは、何も言わず茜色の光を反射していた。 「やるよ、それ。世話になった礼だ」 「あり、がとうございます」 携帯電話を、エレナは胸に抱きとめた。 「それじゃあ、今度こそお別れだ。もう会えないだろうけどさ。ちゃんと、笑って暮らせよ?」 エレナは、目元を拭って、答えた。 「……はい。私、ちゃんと飛んでみせます」 「その意気だ」 笑い、ヒカルは軽く手を上げた。まるで、これからちょっと遊びに行くよ、と言わんばかりの態度で。 そして、ヒカルは崖から跳んだ。 エレナは崖の上からヒカルを見つめた。 ヒカルの身体は段々と光に包まれ、そして、地面に激突する事なく、その姿を消した。 「ヒカル、さん」 胸の携帯電話にヒカルの温もりを確かめるように、エレナは強く握り締めた。 彼女はもう、泣いていなかった。 ――ぶかい!? 声がした。遠いような、近いような。 ヒカルはそれを確かめようと、そっと目を開いた。入ってきたのは真夏の強すぎる陽光と、人の顔だった。 「よかった、大丈夫かい? 日射病か何かかな?」 「え……?」 ヒカルはきょろきょろと周囲を見回した。彼の目の前にいるのは紺色の制服の男性――どう見ても警察官だ。 場所は住宅街の路地。近くには警察官の持ち物であろう白い自転車と、ヒカルの持ち物である学生鞄が落ちていた。 「大丈夫? 救急車を呼ぼうか?」 「あー、いや、大丈夫ッス。家、近いんで」 ヒカルは咄嗟にそう言った。それでも警察官は心配そうに、家まで送ると言ってくれた。 断っても諦めそうになかったので、ヒカルは警官を連れて自宅までの道のりを歩いた。 すぐに自宅前に到着し、ヒカルは警官と別れて自宅に入った。 「ただいま……」 現実味を帯びない声で、ヒカルは言った。すぐに居間から、母が顔を出した。 「ヒカル? どしたの、変な声なんか出して」 顔を出した母は目をぱちぱちとさせながら、首を傾げた。 「ヒカル、あんたってそんなに髪、伸びてたっけ?」 「え?」 ヒカルは前髪に手を触れた。それは確かに、目にかかるほど長くなっていた。 「ああ、こんなんだったよ」 「まあ、いいけど。床屋に行くなら言いなさいね」 それだけを言い残し、母は台所へと姿を消した。 ヒカルは玄関から伸びる階段をとんとんと上っていく。階段を上って右側が、彼の部屋だ。 ヒカルは自室の扉を開いた。そこは、ヒカルの記憶通りの部屋だった。 ヒカルは鞄を机に置くと、どさりとベッドに倒れこんだ。 「まるで、夢みてーだよな」 何もかもが夢だった。そんな気すらした。 ヒカルは左腕を見た。そこには、不思議な文字が刻み込まれた、銀色の腕輪が光っている。これがなければ、全てが夢だったとさえ思ってしまうかもしれない。 「実際、言ったって誰も信じるわけねーよな」 ヒカルはひとり、自嘲的な笑みを漏らした。 魔法の世界に行って、竜の神様と会って。エルフと会って、戦争をして、それに勝ったなんて。そんなの、誰も信じるわけがないだろう。 「ま、それでも関係ないけどな」 思い出は確かにヒカルの中にある。それで、十分だった。 明日からまた、彼は日常の中に埋もれていくだろう。それでも彼が、戦い、傷つき、泣き、笑った日々を忘れる事はないだろう。あの日々が彼に与えた影響は、あまりに大きかった。 「っしゃ。そんじゃ、メシ食って、久しぶりに勉強でもすっかな」 ヒカルはベッドから起き上がった。 残してきた彼女に頑張れと言っておいて、自分は何もしないわけにはいかない。彼とて、こちらでなら飛べる可能性を持っているのだから。 ヒカルは窓から空を見上げた。 青い空は、ディラータの空と変わらないように思えた。抜けるような青い空。 その下で、ヒカルは生きていた。 |