その日、ヒカルはダイナスの手料理を食べた。意外とダイナスは料理も上手く、手早く美味しい料理をテーブルに並べた。
 夕食後、これと言ってやる事はない。ダイナスは何やら難しそうな本を読み、アリシアは書類らしきものに目を通す。ヒカルもする事がなかったため、読みやすい本を一冊、ダイナスから借り受けた。
 娯楽小説らしい。普段は本を読まないヒカルだけに、あまり集中して読む事はできなかった。結局、その晩に最も早く眠りについたのはヒカルである。
 翌日、朝。朝食の席で、さしあたって何も予定のないヒカルは、ダイナスにどうしたらいいのか聞いてみた。
「ああ、それだったら教会に行ってみるといい」
 問われたダイナスはあっさりとそう答えた。
「教会、ですか?」
 ヒカルは少しだけ不安げな顔をした。昨日のアリシアの発言等を聞けば、それも無理もない。
「教会には書庫があってね。ここにはない、珍しい蔵書も多い。あるいはそこに、君がこの世界に来た要因が書かれた本もあるかもしれない」
「なる、ほど……」
 ヒカルはクロワッサンを一口かじり、ふむ、と考えた。
 パンを飲み込み、視線をダイナスに戻す。
「だったら、行ってみます。どうやって行けばいいんですか?」
「ああ、それだったら……アリシア」
 ダイナスはヒカルの隣に座るアリシアに視線を移した。
「ヒカル君を案内してやってくれないかな?」
「……私に教会に行けと、そう言うわけだな」
 不機嫌を紅茶と共に飲み下し、アリシアは頷いた。
「仕方ない。後で私が案内する。それでいいだろう?」
「ありがとうございます、アリシアさん」
 ヒカルはニコリと笑った。代わりにアリシアは、む、と唸った。

 教会はダイナスの家とは城を挟んだ反対側にある。大きな白い壁に、青いトンガリ屋根が特徴的だ。かなり大きい建物で、城の半分くらいの敷地があるようにも見える。実際はそこまでないだろうが。
「エレナ殿のところまで案内しよう。そこから先は私ではわからないから、エレナ殿にお願いする。それで構わないな?」
「はい」
 アリシアが先導し、ヒカルは教会の敷地を歩いて行く。
 男女の別なく、教会の人間であろう、貫頭衣を着た人と何度かすれ違いながら、ヒカルは進んでいった。
 やがて、ひとつの大きな扉の前でアリシアは止まった。コンコンと扉を叩くと、中からどうぞ、という聞き慣れた声が聞こえてきた。
「おはようございます、エレナ殿」
「アリシアさんにヒカルさん……。どうしたんですか、こんなに早くから?」
 机の上にうずたかく積まれた羊皮紙の合間からエレナの頭が覗いていた。
「今、大丈夫ですか?」
「ええ、時間は平気ですけど。何かありましたか?」
 エレナが立ち上がった事で、ようやく顔が見えた。常の通り刻まれた微笑が、その美しさを一層、際立たせている。
「ヒカルに書庫を見せてやって貰えませんか? 特に、伝記に関するものを」
「ああ、その件でしたら私が後で調べてみようと思っていまして、すでに係の者に用意させてあります」
「ああ、でしたら……お忙しいでしょうが、ヒカルを書庫まで案内してやってくれませんか」
「ふふ、アリシアさんは相変わらずここが苦手なんですね。わかりました、私が案内します。アリシアさんはもう結構ですよ」
「……助かります」
 軽く頭を下げ、それじゃあ、と言ってアリシアは部屋を出て行った。
「それでは、私たちも書庫まで行きましょうか」
「悪いな、エレナ。仕事……すごくたくさんあるんだろ?」
「ああ、これですか。私がディラータにいない間に増えちゃったみたいで……。お昼までには終わらせて、私も書庫に向かうと思います。それまでは、ご自分で調べてみて下さい。係りの者に頼んで、少し本を選んでもらってあるので」
「うん、すごく助かる。ありがとな、エレナ」
 エレナはニコリと笑い、先導するように部屋の扉を開いた。

 教会の書庫には、背丈よりも高い本棚が並ぶ。古書特有のかび臭いニオイが充満していた。
 並ぶ本の文字は何となく意味がわかるのだが、相変わらず日本語の本は見あたらなった。置いてある本のほとんどは、おそらく人間界の公用語で書かれているのだろう。
「この近くの書棚に置いてある本がだいたい、目的のものだと思います。ここにある本はどれでも読んで構いませんが、奥の書棚だけは触れないで下さいね。大事な本が置いてありますから」
 木製のテーブルの前までヒカルを案内すると、エレナはそう言った。
「ああ、わかった。ありがとうな、エレナ」
「いえ。これも仕事です」
 それじゃあ、と言い残し、エレナはその場を後にした。残されたヒカルは、とりあえず周囲の書棚を見回してみる。
「ひゃあ……。こんだけあるとちょっと読む気がなくなるな」
 口ではそう言っていても、実際はそうも言ってられない。仕方なく手近の書棚から一冊の本を取り出し、背の高い木製の椅子に座って、その本を開いてみた。
「えーと、『戦争の歴史』?」
 どうやらこの本は、人間とエルフの戦いの歴史について書き記したものらしい。これを見る限り、人間とエルフは、もはや伝説の時代と呼べるほどに大昔から仲が悪かったようだ。
「『正暦二百四十年、当時のエルフ族長だったエルウェンは人間との和平を結ぼうと活動を開始した。長き時を経てようやくエルフの心が動きかけたその矢先、エルウェンは謎の失踪を遂げ、計画は頓挫しかけた。
それを引き継いだのが正暦三百十二年に就任したシンである。シンは離れかけたエルフの心を再びまとめ、和平まであと一歩というところまでこぎつけた。ここまでですでに百年単位の時間が経過しており、人間側の交渉相手は何度も入れ替わったが、戦争を終了させたいという一念において変わりはなかった。だが……』
はあ、エルフと人間もずっと仲が悪いわけじゃないんだ。ってか、今って何年なんだろ?」
「正暦六百八十年だ。そんな事も知らなかったのか?」
 ビクリと肩を震わせ、ヒカルは振り向いた。
 ヒカルの背後に立っていた人物は呆れたような顔のまま、ヒカルの隣の席に座った。
「えーと、確か……エドガーさん?」
「正解だ。物覚えまでは悪くないようだな」
 ヒカルはむっと静かな怒りを顔に浮かべたが、エドガーはまるで気にしていない様子だ。
「何で君がここにいるのかな? ここは教会に許可を受けた人間でなければ入れない場所のはずだが」
「エレナに許可を貰ったんですよ。ダイナスさんに言われて、本を読むために。それより、どうしてエドガーさんまでいるんですか? 兵士団の方はどうしたんです」
「僕は非番だ。兵士団は人数が多いため、交代で休憩を取る。休日も同様だ。それに、僕は君と違ってそれなりの身分がある。教会の許可くらいは得られる立場なんだよ」
 エドガーは特に本を読むわけでもなく、扉の方を見つめたままにヒカルに言った。
「エレナ殿に許可を受けたと言っていたな。エレナ殿はどちらに行かれたんだ?」
「仕事があるって言っていましたよ」
「それでは仕方ないな。ここで待つとしようか」
「……? エレナに用があるんですか?」
「別に。ただ、会いたいだけさ」
「……まるで恋人同士みたいな台詞ですね」
 エドガーはちらりとヒカルに視線を走らせ、また扉へと目を向けた。柔らかそうな黄金色の髪が、ふわりと揺れる。
「……僕は見た目の通り、女性に人気がある」
「自分で言う事ですか、それ」
 エドガーにヒカルの言葉は届かないらしく、表情等に変化は全く見られない。
「僕が口説いて、僕の事を振り返らない人間はアリシアくらいだと思っていた。ところが――」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
 急にヒカルは大声を出し、エドガーは不快そうにヒカルと目を合わせた。
「口説いたって、アリシアさんをですか?」
「だから、口説いていないんだよ。君は何を聞いているのかな。彼女は団長以外に心を開くとは思えないだろう」
「いや、そうじゃなくって……」
 言いにくそうに、それでもはっきりと、ヒカルは言葉を紡いだ。
「……アリシアさんって、女の人なんですか?」
 エドガーはきょとんと目を見開き、呆然とヒカルを眺めた。ふたりの間を木枯らしのような空気が流れる。
 少しか、長くか、呆れた空気の後、エドガーはとうとう笑い出してしまった。
「ははは、そうか。君は知らなかったのか。はは、知らなければ無理もない。だが、はは、それを本人に言ったのか?」
「へ? いや、別に性別なんか聞く事でもないから……」
「何だ、どうせならば言ってみればよかったのに。はっはっは、これは愉快な話だな!」
 笑うエドガーにイライラが募ったのか、ヒカルは声を荒げた。
「一体、何なんですか!? そんなに笑うなんて、失礼でしょう!」
「はっはっは、いや、すまない。まさか彼女を男と勘違いするとはな……」
 目に涙を浮かべ、エドガーは笑顔のままで謝罪した。当然ながら、全く反省しているようには見えない。
「アリシアはな、女だ。女。確かに男よりも強いし、口調や動作も男っぽいが、完全な女なんだよ」
「女の人、だったんですか?」
「ああ……あれでも昔はもう少し女らしかったんだがね。兵士団を辞めてからはますます男らしくなったよ。はは、面白い。彼女を男と完全に勘違いしたのは、僕が知る限り、君が初めてさ」
「……そんなに笑わなくてもいいでしょう」
 エドガーは目元を軽く拭い、声に出していた笑いを収めた。もっとも、顔は笑顔のままだが。
「ああ、そうだな。アリシアはあれで多少は気にしている。あまり本人にそういう事は言わない事だ。彼女はかなり気難しいからね」
「そう、なんですか。それで、さっきの話の続きはお願いできませんかね?」
 未だ不機嫌を口調の端に乗せ、ヒカルは言った。エドガーは表情を戻し、話も戻した。
「ああ、どこまで話したかな? ああ、アリシアの話までか。それでだ、僕はとても人気がある。が、僕を振り返らない人間がアリシア以外にもいるんだよ」
「それが、エレナ……?」
「その通り」
 エドガーが頷くと、彼の長髪が揺れた。香水のような匂いがふわりと充満する。
「だからこそ、エレナ殿には僕の魅力を知ってもらおうと思ってね。こうして暇な時にはいつも、エレナ殿に会っているわけだ」
「……ストーカーみたいですね」
「ストーカー? 何だい、それは?」
「一途な人の事ですよ」
 そうか、と興味がなさそうにエドガーは答えた。
「でも、エレナとエドガーさんじゃ歳が離れすぎていませんか?」
 エドガーは見た目からすると、二十台の半ばといったところ。一方、エレナは同じく見た目からすれば、ヒカルと同じくらいか、あるいは更に年下に見える。つまり、ヒカルには十歳前後は離れているとしか思えないのだ。
「ああ、しかし……エレナ殿の場合は、年齢はあまり関係ないからね。彼女と同じ年齢では、人間では相手になれない。彼女も実年齢はあまり気にしていないようだし、ね」
「はあ、そんなものですか」
 日本社会では犯罪になる事も、こちらの世界では犯罪とは限らない。
 ヒカルにはエドガーとエレナでは犯罪的な組み合わせにも思えたが、エドガー自身が大丈夫と言うのだからと、あえて何も言わなかった。
「……退屈だし、本でも読んでいようか」
 エドガーが席を立ったところで、ヒカルも本に視線を戻した。



  
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