その夜。イリスは与えられた部屋を抜け出すと、足を屋上に向けた。
 研究者用の寮は、どこか薬品の臭いが漂ってきそうな雰囲気がある。イリスは、その白い道を、まるで勝手を知る我が家であるかのように歩いていった。
 階段を登り、屋上への重い扉を開くと、夜風がイリスの髪を軽くなでた。
「おい。どこにいる」
 屋上にやって来たイリスは、やはり険しい表情のままだった。
 と、その声に応じ、暗がりから白衣の男が現われた。
「やあ、久しぶりだね。イリス」
 イリスは現われた白衣の男を、ぎろりと睨みつけた。
「どういうつもりなんだ、マッティオ」
 マッティオは口元に微笑を浮かべ、応じた。
「依頼のことか? だったら昼間にも言った通りだ。フォーテスの試験をするためには、エクイット以上の戦闘能力を持っていることが望ましい。その点、君らは理想的だ。たった四人でドームも落とす戦闘能力。理想的じゃないか」
「そういうことじゃない!」
 つかつかと歩み寄ると、イリスはマッティオの襟元をつかんだ。
「どうして今頃になって私を呼んだんだ、と聞いているんだ!」
「……わからない、か?」
「何?」
 マッティオは優しく手を外した。
 イリスも多少は落ち着いたようだが、それでも眉間のシワは減らない。
「イリス。ここに戻ってこないか? グラヴィールフォースも、君の力ならすぐに受け入れてくれるさ」
「――どうして今、なんだ」
「フォーテスができたから、かな」
 マッティオは空を見上げた。つられて、イリスも見上げる。
 暗い夜空は、点々と星がまたたいていた。
「あれを作ったことで、わかったことがある。どれだけの兵器を作ろうと、この国も、この世界も変わらないんだ。ボクはボクなりのやり方で、戦うための戦いを終わらせようとしてきた。でも、それはまだできそうにない」
 イリスが顔を下げると、いつの間にかマッティオが目の前に迫っていた。
 その、濁りのない瞳に見つめられ、イリスは動けなくなる。
「兵器じゃ世界は変えられない。それを使う人間が変わらなければ、世界は変わらないんだ。だが、ボクには戦う力がない。君の力が必要なんだ。軍の中から、軍を、国を、この世界を、変えてくれないか?」
 イリスの瞳には、マッティオが映っていた。マッティオの瞳には、イリスが映っていた。
 互いが互いの瞳に映りこむほどに、近かった。
「すぐに答えを出してくれなくていい。依頼の終了する、数日後の話だ。その時に答えを出してくれれば、それでいいから」
 イリスは答えず……本当に何も言わず、マッティオに背を向けた。
 マッティオは引き止めない。イリスは一度、雑念を振り払うように頭を振り、その場を立ち去った。
 マッティオはイリスが消えた後も、白衣のポケットに手を突っ込み、閉じた扉をじっと見つめていた。

 閉じた扉の裏側。そこには、まだイリスが立っていた。
「どうして、今になって引き止めるんだ、お前は……」
 ぐっと噛み締め、どこか泣きそうな雰囲気で。けれど、イリスは泣いていなかった。
 けれど、握り締めた拳は震えている。血が滲みそうなほどに、強く。
「もっと、早ければ、ここまでは――」
 言葉は最後まで声にならなかった。最後は、口にできなかった。
 台詞を自ら飲み込み、ぐっとこらえる。
 涙は、こぼれなかった。

 しばらく扉を見つめていたマッティオは、やがて深く息を吐いた。
「来て、くれるかな?」
「来ねーよ」
「……なッ!?」
 独り言に対する返事。予想外の言葉に、マッティオは驚愕と共に振り向いた。
 扉の上。給水タンクのある場所に、今は人影があった。
「星見酒を飲んでたらよ、声がするから降りられなくなっちまったよ」
 ひらりと地面に降り立ち、その人影はゆっくりとマッティオに近付いた。
「いよう、マッティオ、だったな」
「君は確か、イリスの部下の……?」
「ディルファン・アジャシスだ。ディルでいい」
 金色の長髪を風に揺らし、ディルはマッティオの前に立った。手には言葉通り、麦酒の瓶がある。けれど、その顔は酔っているようには見えなかった。
「あんた、隊長とどういう知り合いなんだ?」
「イリスは、君に何も言っていないのか?」
 ディルは頷く。そうか、とマッティオは呟いた。
「なら、ボクが誰であるのか、想像できなくても無理ないな」
 マッティオはディルに背を向け、屋上の柵に寄りかかった。
「ボクは、言ってみれば彼女の幼馴染だよ」
「幼馴染ぃ!? じゃ、じゃあ隊長は、グラヴィールドームの出身なのか?」
「ああ。ボクも彼女も、グラヴィールドーム出身さ」
 イリスは、ディルにもラナスにも、もちろんフレーゼにも、過去はほとんど話していない。
 ディルが知っているのも、彼女がどこかの軍で働いていたこと、そして、ディオート・クラットを創設した理由と経緯くらいなものだった。それ以上を、彼女は話そうとしなかった。
「ボクは生まれながらに体が弱かったけれど、彼女はとても強かった。必然的に彼女は軍に入り、ボクは研究所に所属することになったんだ」
「けど、辞めたんだな」
 マッティオは深く頷いた。
「彼女は軍の在り方に疑問を持っていた。今もそうだが、軍は戦うために戦っている。何かを得るためじゃないんだ。背景には、軍需産業の発達がある。兵器を発展させ、それを使用するためには、適度な戦争が必要なんだよ」
「なるほど。どこも同じってわけね」
 元々は軍に所属していたディルには、その考えに心当たりがあった。彼の故郷も、そういう考え方をしていた。それもあって、彼も軍を辞めたのだが。
「そして、彼女はキャストラムと人型兵器を見つけた。あれのマスターコンピュータはイリスを主と認め、そして、彼女はキャストラムと共にこのドームを出たんだよ」
「問題にならなかったのか? あれだけの兵器だ、それこそグラヴィールが手放すわけないだろ?」
「大丈夫だよ。グラヴィールはあれがイリスのものだと気付いていないからね。彼女が発見した時、ボクとあれのマスターコンピュータで情報を操作した。何も知らなければ、責めようもない」
「――お前、まさか?」
 マッティオは、ゆっくりと首を横に振った。
「君の考えるようなことはない。ボクと彼女は、間違いなく友人までの関係だ。だから君も、気にしないで告白していいよ」
「ワリィが、オレもお前の考えているような関係じゃないんだ」
 ぽい、と。後ろに酒瓶を放り投げる。瓶は放物線を描いて地面に向かい、落ちて砕け散った。
 マッティオは、疑問に眉をひそめた。
「じゃあ、どうしてそんなに気にするんだ?」
 マッティオに背中を向け、ディルはひらひらと手を振りながら答えた。
「まー、家族みてーなもんだから、かな」
 さっさと扉の向こうに消えたディルに、マッティオは既視感を覚えた。
「家族、か」
 ディルの残した言葉を、口の中で反すうする。
「そうか。お前にも、家族ができたのか」
 自分の言葉に、マッティオは小さく笑った。

 グラヴィールドームには、エクイット同士の戦闘訓練をするための部屋がある。
 高さも広さもあり、人型兵器が自由に暴れることができるスペースである。周囲はぐるりとキャットウォークに囲まれ、そこに入るための入り口部分は少しだけ広くなっていた。そこには、ラナス、ディル、イリスが、フレーゼの勇士を観戦するために集まっている。もちろん、マッティオも戦いを見守っていた。
 そして。空間の中心に、モルスと角の生えたエクイットが対峙していた。
「フレーゼぇ! 遠慮なんかすんなよー! ボコボコにしてやれ!」
『そういう依頼じゃないだろ』
「馬鹿を言うな! 負けるなよ!」
 モルスとエクイットは、手にマシンガンを持っている。中にはペイント弾が入っており、これを当てた方が勝利というのが今回のルール。
 依頼としては勝っても負けてもいいのだが、ディオート・クラットの誇りもあるわけで、そうそう負けるわけにもいかない。
「それでは、始めて下さい!」
 マッティオの合図と共に、モルスとエクイットは走り出した。モルスは相手に向かって、エクイットは右に跳ぶように。
 モルスの放った弾丸が地面を紅く染める中、モルスは一挙にエクイットに肉薄した。
 距離はほとんどない。銃どころか、剣ですら狙える距離だった。
「決めたれー!」
 ディルの野次が飛ぶ。
 モルスは中腰にマシンガンを構え、引き金を引いた。
『なッ!?』
 エクイットは、軽く身をひねるだけで弾丸をかわした。ペイント弾が壁に当たって弾ける。
 モルスが慌てて逃げようとするその前に、すでにエクイットは、銃をモルスの頭に突きつけていた。
『うおおおお!』
 気合、まさに気合だった。首も体も強引にひねり、ギリギリでかわす。が、大きくバランスを崩したモルスは、地面を転がった。
 エクイットは容赦のない銃撃をモルスに浴びせかける。モルスは元来の高い運動性に頼り、それをごろごろと転がってかわした。
「なにやってんだフレーゼー! 逃げてねーで戦えー!」
『外野! うるさい!』
 魂の叫びをあげつつ、モルスは立ち上がった。エクイットも警戒し、銃を構えて立ち止まる。
『僕だって、ディオート・クラットだ……』
 心なしか、フレーゼの声に疲れが混じっていた。
 止まった戦いを再び動かしたのは、エクイット。先ほどのモルスを真似るように直線的に進む。
 モルスは動かない。じっくりとエクイットを見つめたまま、その動きを読むかのようだった。
 エクイットは銃口を向け、引き金を引き。瞬間、モルスは左に弾けるように跳んだ。
「――甘い」
 呟いたのは、誰だったか。
『……あれ?』
 エクイットの銃口は、ぴったりとモルスの頭を狙いすましていた。その素早い、普通のエクイットなどではとても捉えられない動きを、けれど確実に理解して。
 これが、フォーテスの能力。相手の動きを的確に予測し、回避と攻撃に活かすシステム。
 その力はペリキュラムの高機能の差を埋められることが、今、証明されたわけなのだが。
「フレーゼ。後で訓練だな」
 イリスの冷ややかな声が、鋭く響き渡った。
 フォーテスの能力が高いのは別にして、ディオート・クラットのメンバーが敗北したというのは大事な事実なのであった。
『あの、これは別に勝利しなければいけないものじゃ』「私に反論するつもりか?」
『……いえ、なんでもありません』
 イリスの怒気を前にしては、フレーゼでは一言も発せないのであった。