ぞくりと背筋が震えた。
 この声、これはヤバい!!
「カナタ、こいつは……」
「しっ、来る」
 次の瞬間、私の目にも見えた。
 一本足に、二本の腕。顔があるべき場所に顔はなく、白いのっぺりとした質感がある。
 一本足ならスキアポデスもいるし、顔がないだけならブレムミュアエという種族もいるという。けど、あの独特の言葉は間違いない。ヤマノケだ!

 ヤマノケは、八尺様なんかと同じ、都市伝説の怪異だ。
 ふざけて山の中に入った父親と娘の前に現れる。ヤマノケは娘に憑依し、娘はニタニタ笑うだけで正気を失ってしまうーー。

 ヤマノケは、一本きりの足でぴょんぴょんと跳ねながら、木々の間を器用に縫ってくる。やがて、奴も私たちの存在に気付いた。
 ぴたりと動きを止めたかと思うと、ぐるりと向きを変える。
「ひっ!」
 その、あまりに気持ち悪い動きに、思わず悲鳴が漏れる。そんなことお構いなしに、ヤマノケは全身を奮わせた。
「テン……ソウ……メツ……!!」
 ぶんぶんと手を振りながら、ありえない動きで飛び跳ねてくる。それはさながら、死に際の蝉が巨大化して暴れているような、生理的に無理な感じの気持ち悪さ。
 しかも、あいつは女に憑依する怪異。私たちは二人とも女だ。ただ気持ち悪いだけじゃなくーーまずい!
「一応は聞いておくけど、あれレイスよね?」
「そ、そう」
「じゃあ撃ってもいいわね」
 次の瞬間、カナタは容赦なくヤマノケを撃っていた。猛烈な発砲音が響き、耳をつんざく。
 思わず耳をふさいだ私をよそに、カナタは容赦なく射殺しようとしていた。
 けど。
「テン……ソウ……メツ……」
 ヤマノケは両手を振り回しながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねている。その動きに遜色はない。
 こいつ、効いていない?
「またか。八尺と同じ、弱点を撃たないと意味がないってやつ?」
「たぶん」
 答える声が震えるのを止められない。それは恐怖か、それとも別の何かか。
「こいつの弱点は?」
「それは……」
 都市伝説を思い返す。
 八尺様は、どんな姿になろうと白い帽子という共通点を持つ。ゆえに、それが本体だろうと当たりをつけられた。
 一方で、ヤマノケに複数の話はない。姿はあのままで、いつの間にか車に張り付き、大声を出すと姿が消えたという。
 だけど、それは娘に憑依した瞬間でもあるーー。
「今はどこを撃った?」
「頭がないから心臓っぽい場所とお腹、それに一本足。どれも効いているように見えない」
 じりじりと後退する私たちを、ヤマノケはぴょんぴょんと追いかけて来る。幸い、足は早くない。これなら全力疾走すれば逃げきれるはず。
「弱点、見つけられそうにない?」
「思い当たる節はない」
「じゃあ撤退!」
 カナタはくるりときびすを返した。私はその後に続く。
 広い車道を二人で駆け抜ける。いつからか、周囲の森が薄暗くなっている。空を見上げると、はっきりと闇が訪れていた。
「ヤバいカナタ! 夜だ!」
「夜ぅ!? バカ言わないで、まだティータイムのはずよ!?」
「でもそうだもん!」
 すでに足元もおぼつかない。このままでは真の闇が訪れるだろう。
 そんな中で、あの化け物から走って逃げる……?
「くっ」
 カナタはポケットに手を突っ込むと、小さなハンドライトを取り出した。光が闇を切り裂き、足元を丸く照らす。LEDの明かりを頼りに、山道を駆けていく。
「くっ……。あれ、捕まったらどうなるの!?」
「ひ、憑依される!」
「憑依されたら!?」
「憑依されたら……されたら?」
 されたら、どうなるんだろう。
 普通に考えれば、自我がなくなるような気がする。それは死ぬことと同義だ。
 けど、ただ死ぬだけでもない。自分という肉体はこの世界に残したまま、ただ自分の自我だけがどこかに消えるんだ。
 ーー消えるのか? あるいは、自分で思い通りに動けなくなるだけ?
 わからない。わかるわけない。でも、わかりたくない!
 ぶるりと震える。その震えが止められない。振動は足の動きをにぶらせ、走ることもままならなくなる。
「あっ」
 小さな石に蹴つまずき、ごろんと一転した。痛いはずなのに、先立つ恐怖のせいでよくわからない。
 ダメだ。今度こそダメだ。とうとう死ぬんだ……。
「はすみ! しっかり!」
 ぐっ、と引っ張られる。カナタだ。
 カナタの手を感じる。あたたかい、その手……。
 人のぬくもりのせいか、震えが止まった。
「諦めてんじゃない! 死ぬまでは死なない!」
「う、うん」
 理屈なのか何なのかもわからない理屈に押され、再び駆け出す。カナタのおかげで、少しだけ冷静さが戻ってきていた。
「はぁ、はぁ……。どこまで続くのよ、この道!」
「っ……。おかしい。あたしたち、この森をこんなに深く分け入った覚えはない!」
「ッ!!」
 そうだ。森の中は1時間も歩いていない。それも、足跡を探索したりしながらだから、距離はいくらも進んでいないはず。
 もちろん違う道だから、方向は少し異なるんだろうけど……。でも、エレベータービルから見た限り、森はこんなに広くなかったはずだ。
「どういうことよこれ!!」
「どういう……。あっ!」
 そうだ。ヤマノケの話では、父親はふざけて山道をドライブしていた時、急に車が動かなくなったという。ヤマノケが娘に憑依した瞬間、車はエンジンがかかるようになった。
 もし、同じことが起きているんだとしたら。ヤマノケからは、逃れられないーー!!
「そんな、はず、ない」
 走りながらのせいで、思考がまとまらない。私は思いきって足を止め、思い切り深呼吸を繰り返した。
 脳に酸素が届きはじめ、ちぎれた思考が少しずつ戻って来る。
「逃げられないなんて生き物、いるわけない……」
 もしもヤマノケが、普通の物理法則が通じないような化け物だったらお手上げだ。けど、八尺様のように、普通の生き物が人間を化かしているだけなら、理屈の通じない相手ではないはず!
 となれば、どこかにまやかしがあるんだ!!
「どこだ……!?」 
 ちょうど、絡み付いただけの枝が八尺様というフィルターを通すことで人間に見えたように。
 こいつも真の姿を隠している。だから銃は通じない。
 そう、同時に、この空間そのものも同じことなんじゃ? ヤマノケが作り出した空間ーー巨大な幻覚の中にいる私たちは、すでに騙されているんじゃ?
 だとしたら、ヤマノケはどこにいるのか。調べる方法はないけど、推理はできる。
 少なくても本体は、あの白い化け物の近くにはいない。周囲にいたら一緒に攻撃されてしまうから、意味がない。
 となれば、ヤマノケは幻影から離れた位置にいるはずだ。それはどこか。
 絶対に当たらない場所。思いがけない場所。相手が隠れられる場所!
「カナタ! 後ろを撃って!!」
「ッ!!」
 グルッ、と後ろに銃口を向け、そのまま引き金を引く。容赦のないマズルフラッシュが周囲を一瞬だけ明るくした。
「キャン!」
 小さな悲鳴があがる。同時に、ヤマノケの姿は揺れ動くと、そのまま煙のように消えてしまった。