灰塚は、駅からほど近いシティホテルの部屋から、向かい側にあるビジネスホテルを眺めていた。
 雨雲たちが宿泊している何もない部屋と比べるまでもなく、豪華で落ち着いた雰囲気の部屋だ。スイートルームなのだろう、開放された扉からは続き部屋が見える。派手さのない間接照明やいくつも並んだテーブルと椅子は、大勢の人間を招き入れることを前提としているかのようだ。
 しかし今、この部屋には灰塚しかいない。彼女もここの設備を利用するつもりなどないため、せっかくの豪華な部屋も持ち腐れでしかなかった。
 彼女がこの部屋に入ったのは、単にここがビジネスホテルを正面から見据えられる空き部屋だった、それだけの理由でしかない。
「……」
 彼女は建物を見据えながら、頭の片隅で記憶を呼び覚ます。

 それは、ほんの数時間前の出来事。
「日向と雨雲の両名に接触された、と」
「はい」
 タクティカルベストを着込んだ少女――灰塚は、主たる青年の前で本日の報告を行っていた。
 いつもの書斎である。部屋中を埋め尽くすような本棚だけが二人を見守っていた。
 窓の外は暗く、とっぷりと暮れた時刻であるとわかる。けれども青年は眠気など欠片も見せず、
「それで、君はどんな印象を受けた」
「頭が良く厄介です」
「根拠」
「彼の言葉が真実であるならば確実に優位、そうでなくとも優勢であったことは間違いないのに、一瞬のためらいもなく逃げるよう推奨しました」
 銃でポインティングはしていた。だが、それだけだった。片方を殺すことは可能でも、もう片方に殺される。生き残ることが前提なら、彼女はギリギリの土壇場まで撃つことなどできなかった。
 そして、彼はこちらに死ぬつもりなどないことを完全に見抜いていた。そうでなければ、逃げろなどという言葉は出てこない。刺し違えてでも殺す意志がある人間に退避勧告など用を成さない。
 それでも彼はこちらに逃げろと宣言した。
「なるほど。単に死ぬのが怖かっただけかもしれない。君が気付かなかった何かしらの理由により、現状では勝てないと踏んだのかもしれない。しかし、それ以外の可能性もある……」
「はい。彼は、あるいは、次に狙われたとしても確殺できるから見逃しただけかもしれません」
 脅威にならない。白桃と対して、彼はそう評していた。
 彼女は、あれで月宮の腹心だ。たった四人の、なけなしの実験成功例たちだ。それだけに、一般人はおろか、名のある霊的能力者が相手でもそうそう負けはしないだけの戦闘力を有していた。
 たしかに感情面では不安も抱えていたが、およそタイマン戦において、彼女は日向にさえ負けないと踏んでいた。
 なのに、彼は歯牙にもかけなかった。
「……ボクは君を信頼している」
「ありがとうございます」
「そして、相手を過小に評価するつもりもない。敵はむしろ過大に評価した方がいい、というのがボクの持論だ。潰せる敵は潰せるタイミングで潰す」
「では」
「ああ、小鉄が戻り次第、彼女にも合流してもらおう。それまで君は相手の監視を頼む。いいか、監視だけでいい。衝突は避けるように」
「了解しました、マスター」
 灰塚は一礼すると、影のように退出した。
 残った青年は、大きな机の上にぽつんと乗せられた書類を手に取る。それは、氷室が持ってきた、新たに追加された『雨雲京介』と『日向雪乃』に対する調査報告書。
「雨雲京介、ね」
 あの日向を従える男。
「面白い」
 そう、面白い。
 そんな感情を浮かべたのは、いつ以来だろうか。
「快進撃、どこまで続けられるかな」
 それはどこか、どこまでも続いて欲しいという願いを含んでいるようにも聞こえる響きだった。
 しかして、その声を聞いた者は、誰もいないのだが。

 そして、灰塚は眠りもせず、とあるビジネスホテルを監視し続けている。
 足取りを追うのは決して簡単ではなかった。砕けた屋上の足型を求めて右往左往、日向の霊力を感じ取れたのは、朝日が昇ってからだった。
 灰塚は仲間うちの中でもかなり異質な存在だ。銃弾に霊力を込めても十分に戦える。そして、霊力を知覚の一種として使用することができる。
 ライフルが届く範囲内くらいであれば、灰塚は目で見えない場所も、霊力だけでサーチすることが可能だ。彼女が狙撃の能力に優れているのは、単に個人的な技能だけでなく、この能力によるところも大きい。
 日向の持つ霊力を探り当て、今はその感覚だけで相手を見つめている。近くに感じる別の気配は、記憶が正しければ、塔原と戦闘をしていた女性だ。正真正銘の化物。
「それは、まずい」
 灰塚は決して自分の能力を過信しない。狙撃兵は優秀だが、一撃で倒せるのは一人だけなのだ。そして、霊力という常識外れの力は、一瞬でもチャンスを与えてしまえば次に何が起こるか予想することが難しい。
 少なくとも、彼女はそう思っている。
 だから、今はまだ手が出せない。あの三人を殺すのは、小鉄と合流してからだ。
 それまでは、絶対に逃さない。
 今度こそ、確実に、お前を殺す。
 あの、ふざけた男を。

 ビジネスホテルの床の上は、自分の部屋のせんべい布団よりは寝心地が良くなかった。単に同じ部屋にいた人物のせいかもしれないが。
 雨雲は冴えきらない頭で起き上がると、ユニットバスで顔を洗った。鏡に映る顔はいつもに増して血色がよろしくない。
「まいったね……」
 ひとりごちる。
 日向と精霊はまだおやすみ中。雨雲はバスタブに寄りかかりながら考えを巡らせる。
 正直、彼女との同行は不本意だった。見知った人間であればどのような行動を取るかも、仮に想定外の行動を取られたとしても、対応策は常に講じてある。それは日向にせよ立風にせよ同じ。
 だが、彼女に対してはそれがない。そもそも彼女は現在、味方ですらない(と考えている)。ただでさえ得体が知れないのに、そんなのを腹中に収める余裕はないのだが……、どうしたものか。
「ん」
 ボーっとしていて、ふと気がつく。
 そういえば、彼女は精霊であると名乗っていた。そして、あのフードはそんな彼女と戦闘状態にあった。
 彼女の言葉を信じるのであれば、彼女はフードにとどめを刺していないことになる。そして、それはおそらく真実。
 そう、フードは狙撃兵――学生服の彼女によって殺害された。ならば、彼女はどうして殺された?
 白桃が殺された理由はわかる。彼女は寝返る、とまでは言わないでも、彼女たちにとって好ましくない情報を渡そうとしていた節がある。見切るには若干ながら早かったように思うが、それにしたって理由がないわけではない。
 なら、あのフードが殺された理由は何か?
「まさか……」
 雨雲が一つの考えに至った時、来客を示すノックが扉の方から聞こえてきた。
「……」
 タイミングがタイミングだけに、気にかかる。まさか他人の思考まで読めるわけではないだろうが。
 警戒しつつも雨雲は入口の扉に向かう。すでに日向が起きており、刀を手に扉の前で待機していた。
 雨雲は頷き、
「どなたですか?」
「お休みのところ申し訳ありません。クロークですが、お客様宛にお電話が入っているのですが……」
「電話?」
 彼らがここに宿泊していることを知っている人物?
 立風ではない。彼は電話するならば携帯電話に連絡するし、そもそも彼はここに宿泊していることを知らない。
 いや、誰も知っているはずがないのだ。ここに泊まったのは昨日、精霊の少女を見つけたからであって、言うなればその場での動きだ。それを、誰かが察知することはできない。
(誰かが僕らの足取りを追ってきた。だが、僕自身に特別な特徴はない、聞き込みにしろ僕を見つけるのは困難だ。となると別の方法、そして、それが可能そうな人物)
 脳裏に、スナイパーの少女が浮かぶ。
 スナイパーの能力は様々だ。狙撃だけでなく、姿を隠す能力や、敵を待ってひたすらに我慢する能力を保有していなければならない。そして同時に、敵を探し求める能力も。
「彼女、か」
 となれば、この『電話』は……。
「日向、逃げるよ」
「普通に外に出てもいいの?」
「駄目だ。ここは、狙われている」
 スナイパーに狙われた場所。どこから狙っているかはわからないからこそ、逃げ道もそうはないに違いない。
「上等じゃないか。スナイパー、君を騙してみせる」
 そうしなければ、生き残れそうにないから。