灰塚は最下層まで降り立った。感じる気配は徐々に近づいている。これは、裏口の方向――。
(非常階段か)
 狙いがわかれば動きも読みやすい。彼の考えることだ、おそらくは素直に一階から脱出などせず、二階か三階あたりから隣のビルあたりに飛び移るだろう。屋上に行かないのは、狙撃手を警戒してのことか。
 跳ねる、跳ねる、跳ねる。
 壁を蹴り、コンクリートを弾き飛ばし、非常階段に。
 近くに霊力を感じるが、単体だ、氷室の関係者だろう。無視して上へ。
 近づく気配。同じ高さになったところで、銃を扉に向けつつ停止する。
 狙撃銃の入った鞄は背中に、動かないように固定してある。ハンドガンはそれほど口径の大きいものではないが、手足に当たれば動きを止められるし、急所に当たれば確実に息の根を止めることができるだろう。
 息を殺し、気配を殺し、存在を殺す。己を殺すことによって、確実に敵を殺すことができる。
 少しずつ、少しずつ気配が近づいてきた。だが、撃つにはまだ早い。
 もう少し、あとちょっと……、今!
 ひねられるドアノブ。同時、放った銃弾は四発。霊力の気配、その頭部に近い場所と胸部に近い場所を狙っての射撃。
「ッ!?」
 相手の反応もまた、早かった。
 二つの気配、内の片方が、もう片方を弾く。反動を利用して自らも射線から外れ、あまつさえ扉をぶち壊してそのまま飛び出してきた。
 敵同士、お互いに視線をぶつからせる。
「――灰塚?」
 そこで、灰塚は手を止めた。
 扉の向こう側にいた、自分が狙い撃ちした相手は、見知った顔だった。
「氷室……」
 何故ここに氷室が。まさか外れたのか? となると、屋上に向かっていたのが本命? 彼らしい判断とは思えないが、何か理由があるのだろうか?
 考えていても始まらない。灰塚はすぐさま次の行動に移ろうとして、
「待ちなさい、灰塚。どうしてあなたがここにいて、しかも私を撃ったのですか。理由によっては重大な命令違反となりますが」
 氷室の方は、そう易々と行かせてくれる気配ではなかった。
 灰塚は心の中で舌打ちしつつ、
「マスターの命令。雨雲京介と日向雪乃の監視をしていた」
「なら銃を使う必要はないでしょう」
「あなたが乱入し予定が崩れた。監視行動は不可能と判断し、監視対象の抹殺を優先することにした」
「十分な命令違反ですね」
「……」
 言われるまでもなく、そんなことは理解している。いずれにせよ、お前が乱入しなければ安全に物事を終えられたのだ。
 思うが、口にするわけにもいかない。灰塚が無言を貫くと、氷室はふん、と鼻を鳴らした。
「いいでしょう。彼らを排除すべきという点では私も同意見ですので。灰塚、協力なさい」
「そういった命令は受けていない」
「私が命じているのです」
「わたしは」
 ことさら強く、宣言するかのように言い放つ。
「あなたに命令される立場にはない。わたしとあなたは、同列」
「ほう」
 氷室のまとう霊気に、殺意が増すのを感じた。
 だが、灰塚に前言を撤回する気持ちなど毛頭なかった。
「私と、あなたが、同列。なるほどなるほど」
 言葉とは裏腹の感情を端々からひしひしと感じる。
 平静な顔をして、しかし彼女は、心中にて穏やかなものなど持っていなかった。
「よくもまあ、無表情に無感動にそんな言葉を吐けるものです。忘れたのですか? 私はあなたたちの監視役も兼ねているということを」
「けれど、五星の幹部という立場は、同じ。わたしも同様に部隊への命令権を持っている」
「だから何だと言うのです! 実際に部隊を使ったこともないくせに!」
 ほら、感情が爆発した。
 灰塚は口の中で呟くが、当然のように氷室には届いていない。
 彼女が二の句を継ごうとする前に、灰塚は手のひらを見せてその爆発を抑える。
「それよりも。今は、雨雲京介の方が優先されるべき事項」
 言いながらも、灰塚は屋上の方向に向かう気配を追っていた。見失うわけにはいかない。ここで逃せば、次のチャンスが遠くなる。
 スナイパーとしては確実に殺せるチャンスを狙うべきなのだが、なぜだか、灰塚はここで決着をつけたくなっていた。
「……、その点だけは同意しましょう。灰塚、相手の捕捉は」
「すでに追っている。今は屋……」
 気付く。
 突如として現れた気配。たったひとつの、その気配こそが、一瞬にして屋上に向かっていた気配を消し去ってしまう。
「!?」
 慌てて建物全体の気配を追う。目の前の二人を除くと、建物の中の気配は二つしか残っていない!
「ふ、たつ?」
 そうか。目の前の、氷室たちに集中しすぎていて、屋上に向かう気配を追うのが精いっぱいだった。だから、残る気配が姿を隠しても気付かなかったのだ。
 それは、まだいい。だが、気配を打ち倒したということは、
(水の部隊が雨雲たちを倒した――?)
 それも、単独で?
 考え、にくい。
 部隊の個々人の戦闘力は、幹部たちに比べるべくもない程度でしかない。灰塚とて、たとい五人の部隊メンバーに囲まれようとも、脱出せしめるだけの自信がある。
 氷室は、おそらく日向たちの実力を過小評価しているのだろう、部隊メンバーでは足止めになるかどうか。元来、部隊は霊力を持たない人間に対する兵器だ。霊力を持つ人間に対して対抗するためのものではない。
 そうだ、ということは!
「分かれたのか……!」
 だから、二人組の気配を追っても見つけられなかった!
 しまった。別に雨雲たちと塔原を殺した女は仲間と決まったわけではなかったのだ。状況的にも共闘するのが当たり前と思いこんでしまったが、分かれる可能性だって十分にあったのだ!
「早くしないと」
「灰塚! 状況を説明なさい!」
 目の前のうるさい女を見上げ、灰塚は舌打ちを漏らす。
「屋上方面に一名。正面方向に一名。霊力を感じる」
 それだけを告げ、灰塚は飛び出した。
 もう、じっとなんてしていられない。
「待ちなさい、灰塚!」
 氷室の言葉など、聞いている暇はなかった。

 倒れた女の子が持っていた武器はきちんと破壊し、そっと屋上の様子をうかがう。
 鍵を壊して扉を薄く開いた限りでは、敵の姿は見えない。屋上前に兵隊がいたことだし、さすがに屋上そのものにまでは兵隊を配置する余裕もなかったらしい。少しだけ安堵する。
 だが、ここから先が問題だ。雨雲京介の言葉が正しいなら、屋上はスナイパーに狙われやすいスポット。確かに、ここから見る限りでは、室外機がいくつかあるだけだ。あそこまで飛び込めれば、あるいは狙われなくても済むのだろうが……。
 だが、それでも狙われないだけだ。脱出することはできない。
 ――いや。
 女性は首を振る。脱出など、できなくてもいいのだ。雨雲京介は言ったのだから。
 任せろ、と。
 狙撃手を無効化しない限り、安全に脱出することはできない。だが、彼女を無効化するためには、おとりが必要なのだ。
 狙撃をする人間が狙えるのは常に一人だけ。銃という武器の特性上、それは仕方のないことだ。
 だから、屋上で敵をひきつけることができれば、雨雲たちは安全に狙撃手に近づける。そうすれば、無力化させることもできる。彼はそう言い切った。
 なら、彼の言葉を信じればいい。信じない理由など、なかった。
「そうよね、京君」
 日向雪乃はひとりで呟く。
 自分を言葉だけでねじ伏せたあの男の口先。
 死を前にして欠片も動揺しないあの瞳。
「京君なら、大丈夫」
 なかば確信を持って、日向雪乃は屋上に飛び出す。