灰塚が事実に気付く、少し前のこと。 部屋に戻るなり、雨雲京介はどこかに電話をかけた。 日向はそれを横目に見ながら、レイアを起こし、寝起きの悪い彼女を洗面所まで連行し、顔を洗わせて身支度まで整えてやった。 レイアがようよう覚醒する頃になって、雨雲の電話も終了した。 「長い電話だったね。誰に電話してたの?」 危機的状況の割に、日向は落ち着いていた。雨雲は言わずもがな。レイアに至ってはいまだに状況をよく理解していない。 「立風。色々と調べてもらったんだよ」 雨雲は携帯電話をポケットに戻し、 「それじゃ、これからの行動について説明する。日向は屋上に行ってくれ。そして、僕とレイアは正面玄関から外に出る」 「分かれるのは危ないからダメ」 「三人が生き残るにはこれが最も可能性が高いんだ」 雨雲の言葉にも日向は納得した様子を見せず、不満たらたらといった態度でベッドに座る。 「私がおとりになる、ってこと? それにしたって、京君の安全は誰が守るの」 「あらぁ? アタシは戦力外なのかしら」 レイアが茶化すが、日向はちらりと見ただけで何も言わない。 「心配せずとも、あんな素人だらけのにわか軍隊に負けるほど、僕はやわじゃない。それこそレイアも一緒にいる以上、ある程度は大丈夫だ。 むしろ怖いのはスナイパー。その牽制を日向に頼みたいんだよ」 「それは構わない、けど……」 「日向は単独なら移動速度も速く、接近戦なら大抵の霊能力者に勝つ。僕やレイアがおとりになるよりは明らかに生存率が高まるし、いざという時は君だけでも逃げることが可能だ」 「京君を置いて逃げるわけないでしょ!」 「いざとなったらそうしろ、と言っているんだ。僕もこんなところで死ぬつもりはないよ」 そう、死ぬつもりなどない。 「屋上に出たら東の方向に。ビルを三つも飛び越えれば十分だ。その先は自分の判断で安全を確保していい」 「京君たちはどうするの?」 「レイアには安全を確保してもらわなきゃいけない。それと、僕の仕事だけど……」 一瞬。ほんの一瞬だったけれど、日向は見逃さなかった。 雨雲の表情。それは、狩人の顔になっていた。 「――吸血鬼は血を吸うのが仕事さ」 朝の通勤ラッシュに紛れ、雨雲とレイアの二人は駅の方向に向かう。 「薄情なのねぇ、あんた」 「そうかな」 「そうよ」 下手に走り出して目立つわけにもいかず、二人は可能な限り周囲に合わせた速度で歩みを進めていた。 「あんなか弱い女の子をひとり、危険な場所に残して。あれで薄情じゃないって言うのなら誰でも温情派よ」 「いいんじゃない、それも。優しさに満ちた世界で喜ばしいことだよ」 「ふうん……」 鼻を鳴らし、レイアはしげしげと雨雲の横顔を眺める。 「アタシはあんたと知り合ってまだ間もないけど、あんたがそういうタイプだとは思わなかったわぁ」 「どういう意味かな?」 「もう少し人を大切にするかと思った」 雨雲の足が止まりかける。それでも動き続けたのは、彼の強い意志によるものだ。 「日向、死ぬと思うかい?」 「もちろん」 雨雲たちがあのホテルから脱出できたのは、一般人には悟られない程度に、しかしこちら側の人間には伝わる程度に、日向が動いてくれたからこそだ。 それに、正面の入口は、人の出入りが多かった。朝まで宿泊し、早々に出て行くサラリーマンの姿もちらほら見て取れた。スナイパーならばそんなのは関係なく狙撃してくる可能性もあるが、歩兵はそんなところで武器を振り回したくはないだろう。 目立つのをいとわないのと、意図的に目立つ行為を選ぶのは、やはり別の次元なのだ。 ともかく、雨雲たちは無事に脱出、今もこうして徐々に距離を置くことに成功しているが、日向は敵をひきつけた上に、今もあの場所に残っている。 日向だけでは抵抗しきれないからこそ逃げている。それを、彼女だけ置いてきたということは。 しかし、雨雲に焦った風は見えなかった。 「日向なら大丈夫さ」 「あんだけ警戒したスナイパーってのがいるのに?」 「日向が本気で動けば狙撃用のライフルくらいじゃ狙いを定めることができない。あれは、こちらが無警戒の時にこそ力を発揮するんだ。警戒した彼女なら、狙撃くらいどうってことないさ。おそらく逃げ切れる」 「……? なら、なんでそんな警戒するような言い方をするのよ?」 「決まっている。スナイパーを倒すためさ」 そう、雨雲は最初から言っていた。 彼は、あくまで見える範囲にはいない敵を倒すつもりなのだ。 そのためには、ある程度、相手を引きずり出さねばならない。隙だらけに見せた状況からのカウンターこそが最も効果的。 「彼女は真面目だからね。嘘はつけない。逃げ切れると思えばそれが態度に出てしまうような、素直な人だ。そうなれば狙撃手も諦めて撤退するだろう。 今、この場で確実に殺せると踏ませなければならない。その上で、何がなんでもここで殺したいと思わせなければいけない」 そのために、日向には屋上に行ってもらった。 「さて、まずは鬼ごっこだ」 鬼となるのは、誰か。 逃がせない。不思議とそう思った。 すでに狙撃の範囲を超えている。自らの役割を考えればとうの昔に諦めるべき状況だった。 それなのに、体は霊力を追い続ける。足は前に進む。手は銃を放そうとしない。 全身がひとつの武器となり、殺意という人に握られているような感覚。自分が自分でなくなる、この感覚。 こんな感覚を覚えたのはいつ以来だろうか。いや、そもそも今まで感じたことがあっただろうか? 自分らしくない、そう思うのに。 ――それでも。 とんとん、と壁を文字通り駆け上がり、屋上に。さらに霊力の気配を追って飛び跳ね続ける。 相手は三つばかり離れたビルの屋上あたりで止まった。体力が切れたのだろうか? 霊力を使っても連続の運動は疲れる、休息も欲しいだろう。特に相手は緊張を強いられるような状況なのだ。 灰塚は本能的に狙撃に適したポジションに陣取った。そこで背中に背負っていた鞄を下ろし、中から使い慣れた狙撃銃を取り出す。 古い型だった。ボルトアクションという、今では時代遅れになった銃だ。だが、灰塚はこの銃が気に入っていた。何より、オートマチックの狙撃銃よりこちらの方が当たる気がする。 気がする、というのは大切だと思っている。霊力など、究極には『気のせい』なのだ。 狙撃銃に備え付けのスコープを覗くと、離れたビルの屋上に人影があった。顔は見えない。だが、影が見える。まさに人の形をした影、人影だ。どうやら室外機の陰で息を整えているところらしい。 「そこか」 あそこならほぼ直線で狙える。邪魔な室外機も見えるが、あんなもの、貫通できる。多少は影響を受けるかもしれないが、致命的ではない。 一撃で相手を殺す必要は、ない。単独の剣士。手でも足でも撃ち抜いて、動きを取れなくさせるだけでいい。 あの剣士さえいなければ、雨雲京介を守る人間などいやしないのだ! 「当てます」 それは一種のまじない。 言葉を口に出すことで、現実にする。灰塚が教わった、今も大切にしている言葉。 銃声が――。 |