「君は優秀だ」
 ――銃声は、響かない。
 灰塚は振り向くことさえできない。一ミリも動けないまま、じっとスコープを覗き続けている。
 駄目だ。このタイミングでは引き金を引けない。こちらは相手を傷つけることが精いっぱいだというのに、今、自分の後ろで銃を構えているであろう男は、一瞬にして自分の命を奪うことができてしまう!
「……何故、ここに」
 たったそれだけの言葉をひねり出すだけで、彼女にはひどい苦難の道を乗り越えたような気がした。
「簡単だよ。君が優秀すぎるんだ」
 灰塚が何も言わないでいると、雨雲は言葉を続けていった。
「日向が一般人には狙えない、それでいて狙撃手である君には狙える場所にいれば、君は確実に殺しに来る。そして、彼女があの辺りのビルの屋上にいた場合、最も狙いやすいのはこのポイント――周囲よりもさらに高い場所だ」
 だから、先回りができた。
 どこに相手が来るのかわかっていれば鈍足な普通人の足でも先回りはできる。まして、それが雨雲京介なら。
 灰塚は知らない。彼がただの人間であるということを。
「洞察力は、狙撃手にもなれる」
「ありがとう。だが僕は君たちと違って我慢強くないんでね、あまり向いているとは思っていないよ」
「そう?」
 平然と会話しているように見せて、実際のところ、心臓は飛び跳ねていた。他人に命を握られる感覚。
 死ぬことを恐れるような生き方はしてこなかった。拾った命、いつ捨てても惜しくないという気持ちで生きてきた。
 それでも。いざ失うという場面になれば、体は生存本能を叫ぶ。
「何が目的」
「語ってくれるのか?」
「拒否する」
「だろうね」
 想定通りの会話。それは、最初から決められた道をなぞるよう。
 その行き着く先を理解し、灰塚は覚悟を決める。それならせめて抵抗しよう。あの剣士を道連れに……、は、少し難しいか。だが氷室の追撃さえあれば、あるいは。
 そういえば彼女は今、どこで何をしているのだろう。霊力をサーチする能力も、かすかな痕跡から相手がどちらに向かったのか推察する能力も、彼女やその部下にはないはずだ。あるいは、ビルの周囲を適当に捜索しているのだろうか?
 だとすれば、やはり救援などないのだろう。そう、昔からそうだった。本当に必要な時に助けなど来なかった。
 灰塚が諦念に支配されかけた時、頭上から予想外の言葉が降り注いだ。
「良い銃だね」
「……?」
 雨雲の意図がわからず、灰塚は口をつぐむ。
 青年はそんな少女の様子などまったく意識する様子もなく、
「機能性だけを追い求めるのなら、そんな古い銃を使うのは論外だ。単発式だし、装填の度にスコープから目を放さなきゃいけない。そんなのじゃ使い勝手が悪いだろう」
「だから、何」
「そんな銃をわざわざ使うんだ、それだけ愛着があるんだろうね。感傷と呼ぶべきものかもしれないが」
 それは、確かに、彼の言う通りだ。
 機能性だけを追い求めるのなら、この銃はひどく使いづらい。当たる気がするというのも彼女の主観に過ぎないし、一発の命中率が少し上がる程度なら、むしろ何発も連射できるフルオートの狙撃用ライフルの方が効率的に決まっている。
「仲間さえ平然と撃ち殺す冷徹な狙撃手様にしては、随分と変わった趣味だね」
「そんなもの、勝手」
「そう、勝手だ。君が何を使おうと君の自由。だが、その銃を使う……、言い換えれば、そこには感情がある」
 はっと、灰塚は息をのんだ。
 それは、今まで自分でも気付いていなかった、小さな矛盾。
「狙撃ってのは人間性の否定だ。感情を押し殺し、非情に徹しなきゃいけない。そういう意味でも君は優秀な狙撃手と言える。だけど、殺しているだけで感情がないわけじゃなさそうだ」
「……感情など、とうの昔に捨てた」
「そうかな?」
 あくまで余裕の態度。それが灰塚の癇に障る。
「言葉を解し、感情を持つ相手。それなら十分に交渉は可能だ」
「交渉の余地なんて、存在しない。あなたは目の前の敵を殺し、それで全てが終わる」
 そう、それだけで終わってしまうのだ。この短く、ろくなことのなかった人生は。
「目の前の敵、ね」
 雨雲は灰塚の言葉を繰り返す。その響きはいつもと違い、空虚だった。面白くないと言外に表現しているような。
「なぜ敵対する必要がある?」
 空白。雨雲は言葉を発さず、灰塚は言葉に詰まっていた。
 沈黙の時間、耐え切れなくなったのは、我慢に慣れているはずの灰塚だった。
「……意味が、わからない」
「言葉通りの意味だけど?」
「わたしと、あなたは、敵でしょう」
「同じ利益を取り合うから敵対することになるのであって、僕と君らの利害はそもそも関係していない。君たちが僕らに干渉しない限り、こちらからすれば君らはただ『ちょっかいを出してくる正体不明の相手』だ」
 それを便宜的に表現するなら敵だろうけどね。
 雨雲の声がやけに耳に響く。
「おおかた、君たちが僕らにちょっかいを出してきたのは、僕らが何者か知れなかったからだろ?」
 月宮の言葉を思い出す。
 雨雲と日向を狙えと言ったのは、確か、彼らが作戦の障害になるから――。
 いや、なるかもしれないから、だ。
 氷室の調査でも、彼らのことは正確には把握できなかった。
「僕らに関する情報を提供する。見返りに君らの情報を分けて欲しい」
「そちらが約束を守る証拠はない。論外」
「君たちが狙っていた、あの浮いていた女性。彼女は核兵器の精霊だ」
「――!?」
 精霊。その言葉の意味はよくわからないが、それよりもその前の言葉が、灰塚の胸に強く突き刺さった。思わず息を止めてしまうほどに。
 雨雲はひそかに眉をひそめていたが、灰塚はそんなことさえ気付けなかった。もっとも、後ろを向くことができないのだから、内心で動揺していたことは関係ないかもしれない。
 雨雲は、確かに『核兵器』と言った。そう、核兵器、だ。
(こんな偶然が、あるだろうか……?)
 もしも雨雲の言うことが事実なら。
 いや、それが仮に嘘だったとしても、核兵器などという言葉が偶然に一致するだろうか? 精霊という言葉と核兵器という言葉は、どこか合わない組み合わせだ。それが、偶然?
 となると、やはり事実。少なくとも雨雲の持つ情報ではそれが正しい。
 そうなると、月宮マスターはそのことを知っているのだろう、か?
 もしも知っているのなら……、彼は、何を考えている?
 ぐるぐると空転する思考。正解は? 今、ここで成すべきこととは?
「今は色々と考えているだろうが……」
 ふと、後ろの気配が消えた。
 緊張しつつも、スコープから目を離す。後ろを向けば、雨雲は銃を下に向けていた。よく見れば安全装置さえ解除していない。
 最初から、撃つ気などなかったのだ。
「ここで結論は出ないだろう? まずは君たちのボスのところに戻って相談してくるといい。僕らと敵対するのか、否か」
「スナイパーを逃がすと言うの?」
 姿なき敵。どこからともなく飛んでくる銃弾には対処などできるはずもなく、ゆえにこそ、殺せる時に潰しておかなければいけない存在。
 それを前にして、なのに見逃す? 非常識にも程がある。
 だというに、雨雲京介の結論は変わる様子がなかった。
「僕は殺人が趣味というわけじゃない。殺さずに済むのであればそちらが最優先。今は交渉の余地がある以上、君を殺すわけにはいかない」
「ならば人質とする方法もあるはず。交渉には、何もわたしを使わなければいけないわけではない」
「そうして欲しいならそうするけど」
「む……」
 あくまで余裕。その余裕、腹が立つ。
 ――腹が立つ?
「いや、そんな、ことは」
「そう、なら戻るといい」
 そういう意味ではないのだが。
 だが、いや、この場は退くべきか。それともここで命を狙っておくか?
 幸いにも相手は安全装置さえ外していない。早撃ち勝負となれば、多少は自信がある。相手より早く撃てるか?
 ……何を馬鹿な。
「わかった。伝える」
 確実に殺せるタイミングでなければ殺さない。
 無駄に死ぬことは、マスターの意思に反するだろう。
 灰塚はライフルを手に取り、そのまま、宙に舞った。