指定されたホテルの屋上には、雨雲たちが到着した時点では誰もいなかった。
 雨雲京介、日向雪乃、そしてレイア。雨雲としては日向たちがいると交渉しにくくなりそうだし、あまり来て欲しくはなかったのだが、彼女たちが付いて行くと言い張ったのだ。
 屋上は以前に見た時と何も変わったところはない。少なくとも、見た目には。
 それでも日向は周囲を警戒しながら、
「どこにもいない……、どういうことかな?」
「どこかで様子を窺っているんだろう。銃弾が飛んでこないといいけどね」
「銃弾!?」
 だってそうだろう、と雨雲は続ける。
「わざわざ呼び出したんだ。罠がないと考える方がおかしい。まして、相手は狙撃兵だよ?」
「じゃあ、わざわざ撃たれに来たって言うつもりかしらぁ?」
「そんなわけないだろ、レイア」
「じゃあ、どういうつもりで、何の準備もせずにこんなところまで来たのかしら?」
 雨雲はちらっと周囲を見やる。そして、早口に続けた。
「罠があると考えるのは当然。そこに空手で、一見すると何の準備もしていないように見える連中が来たら、君はどう思う」
「喜んで撃つ」
「……。普通、人間ってのは変な生き物でね、事が思い通りに運んでいると、逆に疑ってしまうんだ。こんなにうまく進むはずがない、と。経験がある人間ほど、それは顕著に表れる」
 どんな作戦にもイレギュラーはセットだ。
 物事が考えた通りに進むなんて、まずありえない。だからこそ、いくつもの策を用意し、イレギュラーな事態にはそれぞれ対処する力も求められる。
「こうして僕らが何もせずに現れれば、普通はこう考える。『実は何か秘策を用意していて、こちらが攻撃するのを待っているのではないか』と。
 自分たちの作戦に自信があるならそれもいいだろう、乗って来る可能性は高い。だけど、自分たちの作戦に自信がなかったら? 相手を過大評価し、自分たちの戦力ではとても対応しきれないと考えていたら?」
「あのスナイパーがそんな殊勝な人間かなぁ?」
 日向でさえ首をかしげるが、雨雲は自信があるようだった。
「彼女たちはすでに一度、自分たちの作戦を破られている。しかも、数で圧倒し、かつ絶対的に有利な状況だったにも関わらず、だ。以前に失敗したという一種のトラウマは、次も失敗するかもしれない、という恐怖感を生み出す」
 彼らはこちらが予想だにしない手段で反撃してくるかもしれない。
 前回は命だけは助けられた。だが、次は?
 次も助かるとは、限らない。
 実際、何かカウンター手段を備えているとは限らない。本当に空手かもしれないのだ。だが、失敗を前にしては、人は慎重にならざるをえない。
「でも、それなら別に、本当に無策で来なくてもよかったんじゃ……?」
「実際問題、僕はスナイパーやトラップに対抗する能力を持っていないからね。どうにもならない」
「諦めがいいのねぇ?」
「臨機応変だ、と言って欲しいものだね」
 実際。今ここで、狙撃されれば雨雲にそれを防ぐ手段はない。
 だが、彼はその可能性は低いと踏んでいた。そうでなければ、わざわざ呼び出したことに対して説明ができない。
 単に狙った場所で狙撃したいだけならば、あんな不正確な方法を使う必要はないのだ。こちらの正体を知らないとはいっても、日向は裏ならばそれなりの名。連絡をつける方法など幾通りもあるのだ。
 それに、あの時の狙撃手の反応。そこから導き出される可能性。
 決して性善説など唱えるつもりはないが、彼女は確実に引き出されている。素直に撃つとは思えない。少なくとも、言葉を交わさずには。
「ほら、来た」
 ある意味で予想した通りだった。
 隣の建物から飛び移ってきたのは、タクティカルベストを着込んだ学生服の少女。肩には黒い鞄。そこに表情などないが、感情がにじみ出ているようにも見えた。
 スナイパー。雨雲の標的。
「名を、聞いてもいいかな」
 一瞬の躊躇。そして、少女は口を開く。
「――灰塚」
 瞬間。勝敗は、決したようなものだった。

 ラブホテルを出た時、灰塚は、雨雲が来る可能性を心の中で打ち出していた。
(五割……、以下)
 どう考えてもあの誘いは罠だ。彼ほどの人間なら正直に乗るとは思えない。だが、言葉が苦手な彼女にとって、彼を誘う上手な文句が思いつかなかったのも事実なのだ。
 普段から話をすることなどしなかった。常に沈黙し、月宮の指示にだけ従ってきた。そんな彼女にとって、言葉だけで人を誘う方法など存在しなかった。
 だから、ホテルの屋上に雨雲の姿を見た時、灰塚は人知れず安堵していた。
 屋上に降り立ち、彼と正対する。相変わらず薄く笑みを浮かべた彼は、ふざけているようにしか見えない。
 最初に彼が放つ言葉を待ち構えていた。何故、と聞かれれば、呼んだ理由は答えられた。
 だけど、最初の言葉は想定外。
 ――名前。
 彼女にとって、それは深い意味を持つものであり、全く意味を持たないもの。
 生まれた時から親を知らぬ彼女は、明確な名前を持っていなかった。スナイパーとして育ってからは特に顕著。仲間とは別々の単独行動が多く、名前を呼ばれる機会はなかった。
 だから、灰塚という名前は、月宮に貰ったものだ。彼から与えられた、最初のもの。
「灰塚、ね。面白い名だ」
 お前ほどではない、と内心で呟く。日本人の名前には詳しくないが、雨雲というのはそうないだろう。
 雨雲はそれから言葉を続けない。ならばと、こちらから何かを話そうと考えるのだが、いまいち言葉が出てこない。
 元より、彼女の中にある曖昧な何かを見据えるためにこそ、この場は意味を持つ。それは言葉では言い表せないものだ。まして、言葉が苦手な灰塚には、内面の言語化は不可能だった。
 だから、灰塚は銃を取り出した。自分が持っている銃の中でも信頼性の置けるハンドガン。
 雨雲の隣に立つ剣士がぴくりと反応したが、彼女には興味がなかった。
「雨雲京介」
 そうだ、そうするのが手っ取り早い。
「勝負して」
 銃を軽く放り投げてやると、雨雲は受け取ってくれた。
「西部劇ってわけか。いいだろう」
「ちょ、京君!?」
 剣士が何かを言おうとするが、雨雲はそれを簡単な所作だけで止める。
「大丈夫。負けることはない」
 雨雲は自分の懐から同じように銃を取り出し、それを灰塚に投げ渡した。
「これでイーブンだ。同じ条件ならば、僕が負けることはない」
 たいした自信だ、と灰塚は思う。
 ……自分に、あれほどの自信があるだろうか?
 雨雲京介。彼は、彼女の理解できる範疇を超えている。

 灰塚と雨雲、双方が背中をくっつける。互いの手にはハンドガン。少し離れたところでは、レイアと日向が見守っていた。
 早撃ち勝負。灰塚は自分の銃に関する技術だけは信頼している。今まで伊達に経験を積んできたわけではないのだ。銃と名のつくものであるなら、どんなものでもそれなりに扱える自信がある。
 まして、ハンドガン。基本中の基本。これが使えずして銃使いを名乗れるものか。
 しかし、それは雨雲京介とて同じ。フラットな条件の下、彼の能力や過去がわからない以上、確実に勝てるという見込みはない。
 確実に勝てない勝負に身を置く。思えば、随分と久しぶりのことだ。霊力を手に入れてからは、確実に相手を殺せる場所から狙撃することが多かった。こうして、自分を撃ち殺せる可能性を持つ相手と戦うことなど、ついぞなかった。
 愚かしいと自分でさえ思うのに、こんなものに身を任せたいと思う自分もいる。
 混在。
「日向! スタートの合図を頼む!」
 雨雲に言われ、日向がごくりと喉を鳴らした。
 風が吹いている。風速は、二メートル。この近距離ならば、影響はない。
 湿度は。温度は。いやいや、今ここで必要な情報は、そんなものじゃない!
 そう、集中力。集中することが全て!
「す、スタート!」
 日向の合図で、両者が前に踏み出す。
「一」
 距離が開く。戦いが始まる。緊張感が高まる。
「二」
 さらに前へ、灰塚は踏み出す。霊力で感じる雨雲の背中は、素直に離れていった。
「三」
 進んだ瞬間、振り向く。そのまま引き金を――。
「ッ!?」
 引き金が、引けないッ!?
「相手に素直に武器を渡す方が間違っている」
 そうだ。すっかり失念していた。
 この男は、そういう男だ。
 気付いた時には雨雲が目の前にいた。彼の銃口が、灰塚の額に突きつけられる。
「王手。いや、詰みだ」
 灰塚の手から、モデルガンが滑り落ちた。