スピードにおいて、日向雪乃はそうそう負けることはない。灰塚の銃弾でさえ彼女の動きに追いつくことはない。
 しかし、小鉄が相手では、自慢のスピードも完全には機能していなかった。
 なにせ、武器に通う霊力量が違いすぎる。それはそれぞれの得物の違い。
 小鉄の持つ斧と日向の持つ刀では、重量が違いすぎた。それだけの差があると、日向の霊力が断裂に特化しても、断ち切ることができない。
 もちろん武器でガードされなければ問題ない。手足くらいならば簡単に持っていけるだろう。
 それがわかっているから、小鉄も無理をせずガード主体で動く。斧を盾にし、紙一重で致命傷となりうる攻撃だけは避けてくる。
 ならば日向の方が引こうかとすれば、今度は小鉄が攻めてくる。攻守の見極めが得意らしい。下手に逃げようとすれば、逆に殺されるだろう。まさかこの期に及んで、殺しをためらうとも思えない。
 殺したいわけではない。無力化できればそれが最善。だが、それもできない。先程とは別の意味で硬直している。
 ならば、なんとかしなければ。
「……」
 雨雲は無造作に銃を構えた。銃口が日向と小鉄に向く。
「……それは」
「問題ない。撃てば半々の確率で当たるのだからね」
 小鉄と日向、どちらもが雨雲を見ていた。苛烈なる攻防だけはそのままに、こちらの動きを観察している。
「日向に当たればアンラッキー。小鉄に当たればラッキー。博打だ」
「それで、不利になったら?」
「その時はその時だろう。未来の憂慮を起こる前にしたところで全く無意味だ」
 リスクとメリット。失うものと得られるもの。
 この男は、本当に撃つ!
「ッ――!」
 だが小鉄も手が離せない。圧倒できるほどの戦闘力差があればとっくの昔に殺している。それをしないのは、つまるところできないから。
 小鉄にとってこの博打、デメリットが果てしなく大きい。仮に目の前の日向を倒せたとしてもまだ灰塚と雨雲が残る。こちらには兵隊がいるが、連中は立風の方を追っていてこちらに援軍が来る可能性は低い。それに、もし来たとしても、実力的にあまり役立つとは思えないだろう。
 最悪の二択! しかも、選択権が小鉄にはない!
「さ、悪魔の選択だ。ラッキーヒット、するといいね」
 引き金を、青年は本当に引いた。

 走るっきゃない。
 というか、走る以外に選択肢がなかった。
「うおわあああああああああ!?」
 みっともないとは思うけど、そう見た目を気にしていられない状況。
 転がって避ける、というよりは、外れた攻撃の余波でぶっ飛ばされるような状態。我ながら格好悪いとは思うのだが、立風にはどうにもならない。
 ごろごろと路上を転がる。そこそこ大きい通りに出たというに、人の姿がなかった。連中が人払いでもしたのだろうか?
 全身に走る痛み。家の中でパソコンと向かい合っているだけでは絶対に遭遇することのない苦痛。
「はは、よくやるよな……」
 本当なら家の中でごろごろと寝転がっていてもよかった。だが、彼は雨雲と共に走る方を選んだ。
 もちろん、あの家はすでに安全な場所ではないというのもあった。それは理由の一つだが――別の理由もある。
「はぁ、ぁ……?」
 目の前に人影。この場において、無関係な人間が立ちはだかるなどということはない。顔に見覚えはなく、特に武器を持っているようにも見えなかったが、敵なのだろう。
 後ろを見る。挟まれていた。いや、囲まれている。
「おとなしく投降してください」
「負けを認めれば、生かしてくれるって?」
「殺せという命令は受けていませんから」
「……はは」
 甘い。こんなにも甘い。
「お前たちは誰を相手にしているんだ?」
「もちろん、雨雲京介、あなたですが」
「雨雲京介を相手にするってこと、理解していないな」
 おそらくは、自分が最も雨雲という人間を知っている。日向や、もちろん灰塚やレイアなどとは比べるべくもなく。
 彼と出会って十年近い。彼が見た地獄、その片鱗も見た。
 だからわかる。彼女たちの、投降しろという言葉が、どれだけ希薄で無意味なものであるか!
「馬鹿だな」
「……?」
「いいか。雨雲って男の最も恐ろしい点は、力がどうこうじゃない。あいつの知識も技術も能力も、どれもあいつ自身の持っている『闇』に比べれば小さなものだ」
「何が、言いたいのですか?」
「わからないのか? あいつが殺さないのは、その気になってしまえば誰をも殺してしまうからだ。俺が生きているのは、俺が生き伸びるための努力をしたからだ。あいつは自分の中の負を飼い殺せない。だからルールを決めて、殺さずに済むようにしているだけなんだ」
 全身の力が抜けた。痛い。苦しい。このまま何もかもを投げ出して、倒れてしまいたい。全てを委ねて、何も考えず。
 雨雲はそうするだけの権利があった。あいつは、普通の人が一生の間に見る苦しみの何倍もの苦しみを見たはずだ。もうゴールしてもよかった。
 なのに、あいつは進むことを選んだ。決して前向きな理由ではなく、己の闇に突き動かされるままに。
「人が死ぬのは、あいつにとって見慣れた光景だ。死はあいつにとって恐怖の対象じゃない、ただの汚らわしい存在なんだ」
「ふうん。そうなの」
 声が変わった。いや、この声、聞いたことがある。
「がッ――!?」
「なっ!?」
「きゃっ!!」
 爆発。衝撃。悲鳴。
 立風自身も無事では済まなかった。爆風にあおられ、コンクリートの道路に体を叩きつけられる。重なる痛み。
「あぐッ……!」
 何かが体にぶつかる。それを確認する間もなく息が詰まり、鋭い痛みが全身を駆け巡る。
「無様ねぇ。でも、そういう姿は嫌いじゃないわよぉ、宗也」
 カツン、とヒールが鳴る。
 見上げた姿は、女神とは言い難いほど好戦的な笑み。
「レイア……」
 体を起こし、周囲を見回す。人が倒れている。囲んでいた連中を片っ端から倒したらしい。怪我らしい怪我をしていないのが、また立派なものだ。
「どう、宗也。立てるかしら?」
「立つだけ、なら、ね……」
 よろめきながら足に力を込める。なんとか立ち上がることには成功した。だが、ぷるぷると足は震え、体は傾き、今にも倒れそうだ。
 仕方なし、レイアは立風に肩を貸す。そうでもしなければ、今の彼は倒れてしまいそうだった。
「あんた、直接に戦ったわけでもないのに、どうしてこんなにボロボロになれるわけぇ?」
「そう、言われても、ね……。俺は、ここにいる連中みたいに、戦い慣れてないの。一般人」
「だからって打たれ弱いのはどうにかならないのかしらぁ?」
「は、は。面目ない」
「そう思うのだったら自分の足で立てるようになりなさい」
 なんだかんだと言いつつも、貸した肩を外すような真似はしない。優しい子だ。
「さ、京介のところに行くわよ」
「ああ」
 よたよた、歩き出す。倒れている連中が起きる気配はない。完全に気絶していた。武器もいくつか転がっているが……、持っていっても、役立つことはないだろう。素人である以前に、霊力を使えなければ同じことだ。
 そういえば、適当に走り過ぎてしまっていた。ここは、どこなのだろう。
 近くに見えるものといえば道路に街路樹、公園に住宅。住宅があるのだから住んでいる人がいるはずなのだが、それらは見当たらない。――まさか全員を殺したりはしていないと思うが。
 物騒なものは何も見えない。だが、異常なのが伝わってくる。
 そういえば、現状はどうなったのだろう。指名手配されていたはずだが、警官の姿も見当たらない。
「どうなることやら……」
 さしあたっての脅威はなくなった。なら――。
 立風の思考は途中で中断される。
「転がってなさい」
「だっ!?」
 突き飛ばされる。受身なんて取れるはずもなく、ただ転がることしかできなかった。
 増えた擦り傷の痛みを我慢しながら、顔を持ち上げる。
「あ……」
「見つけましたよ、雨雲京介」
 追いつかれた。