一瞬、本当に一瞬の迷いだった。
 今の小鉄にとって拳銃は恐ろしい武器ではない。だが、彼女は何度もそれによって命を失いかけ、また、たとえば灰塚のように、特殊な銃弾が存在する可能性も否定しきれるものではなかった。
 もちろん、そんなに難しいことを一瞬で考えられたわけではない。だが、瞬間的にそれらの状況が頭をよぎり――その一瞬の間は、ただ瞬間の攻撃力だけに特化した日向を相手にするには、致命的なものだった。
 雨雲の目に、日向の動きは映らなかった。気付いた時には小鉄の背後に日向が立っており、振り抜いた刃には血がついていた。
「ッ……」
 遅れて、小鉄がしゃがみ込む。手足をかばうような動作。
「手足のけんを切断したわ。これで、あなたは動けない」
「そのようだな」
 武器を手放す。巨大な斧が重々しい音を立ててコンクリートの上に沈んだ。
「やられたよ、私の負けだ。まさかお前の持っている銃が模造銃だったとはな。気付かなかった」
「へえ。さっきの一発だけでこれがおもちゃだと気付いたんだ」
「当然だ。BB弾を飛ばす銃が本物なはずないだろう」
 当たれば割と痛いのだが、まあ死ぬことはない。
「考えてみれば、味方を銃撃する奴などいるはずがない。そんな基本的なことさえ失念したのが私の敗因といったところか
「いや、君の敗因をあえて言うとするなら、常識の欠如だね。こんな街中に拳銃を持った男がいるはずないだろう?」
「……ふふ、それはそうだ」
 敗北したというに、小鉄の顔に緊張の色はない。それどころか、この状況を楽しんでいるようにさえ見える。
 手足を投げ出し、小鉄は雨雲京介を見上げていた。
「雨雲京介。お前は、灰塚の話は聞いたんだな?」
「ああ」
「なら、月宮には誰にも言っていない目的があることもわかっているはずだ」
 黙ってうなずく。彼の目的が戦争やそれに類するものとは、どうにも思えない。大量殺人などもってのほか。結果がそうであれ、それが目的とは思えない。
「実は私も正確には知らん」
「ということは、灰塚よりは知っているわけだ」
「まあ、付き合いも長いからな」
 ちらと見やる。灰塚は、いつものように表情を浮かべていなかった。
「実際の付き合いは氷室の方が長いはずだ。だが、あいつは見ての通り感情的になりやすい。月宮も、そういう理由で氷室を信頼はしていなかったようだな。いや、誰も信頼はしていないか」
「……それで?」
「私は氷室よりは月宮の信頼を勝ち得ていたように思う。それでもあいつは孤独だったがね。
 その私が思うに、あいつの目的はおそらく成功しない。今のままでは。鍵が必要なんだ」
「あの霊力兵の部隊も僕やレイアを狙ったのも、全て鍵のためだと?」
「それは知らん。自分で聞きに行け」
 不敵な笑み。雨雲もようやく気付く。
 彼女は自分と同じ。死ぬことを怖がっていない。死んだらそれまで、なのだ。彼女にとっては。
「……、日向、こいつを頼む」
「京君は?」
「僕はバカを回収してくる」
 言いながら、雨雲は携帯電話を取り出した。
 電話帳に登録されている番号は少ない。内の一つを選択し、音声電話を選択。
「繋がるかね」
 電話を耳に近付けると、呼び出し音が聞こえ――。

 レイアは無言のまま、何もない空間に手を伸ばす。
 ぐっと握り込むと、手の中に確かな感触が現れる。
 それは矛。幅広の穂先を持つ長柄武器の一種。レイアはそれをぐるりと回転させ、威嚇するように体の前で構えた。
「立ち去りなさいな、人間。あたしはそんなに気長じゃないわよぉ?」
「去りなさい、化物。元来、我々の持つ霊力とは、あなたのような化物を調伏せしめるためのものなのですよ?」
「あら、それは都合がいいわぁ。つまり、殺しちゃっても仕方ないってことよねぇ!」
 突撃。
 レイアの長い柄を利用した攻撃を、氷室は紙一重でかわしていく。
 氷室は武器を持っていない。拳では中距離を得意とするレイアには届かないだろう。そう、懐にでも飛び込まなければ。
「あなたは乾坤一擲けんこんいってき、という言葉を知っていますか?」
「日本語は詳しくないのよねぇ」
「中国での出来事を元に作られた故事ですよ。自分の運命を賭けて大勝負に出ることをいいます」
「ふうん。それが、何?」
「大勝負と呼ぶには少々、小さいですが……、仕方ありません!」
 飛び込んだ。
 自ら矛を持つ相手に飛び込むのは並々ならぬ勇気が必要となる。だが、その勇気の先にあるメリット。長柄武器は、その長さが災いし、手近な敵に対しては無防備となってしまう!
 彼我に絶対的なまでの速度差がなければ、飛び込む時に決して軽くはない一撃を貰うことになるだろう。そして、氷室は一級品のスピードを持っていた。
「はッ!!」
 その一撃。軽くはない。
「ぐっ!」
 受け止めるのではなく、あえて力に任せ弾き飛ばされる。重量のないレイアは、それだけで数メートルも距離を置くことができた。
「遅い。その程度では霊能力者を捉えるなど不可能でしょう」
「どうかしらねぇ」
 軽くない一撃を貰ったはずだが、レイアに苦痛の色はない。不死、というのは伊達ではないのだろう。
「こんな弱い拳だけじゃ、あたしは殺せないわよぉ? うふふふふ」
 楽しそうに笑い、レイアは矛を振りまわす。正直、彼女の動作は戦う者のそれではない。だが、そんな必要などないのだ。彼女は氷室程度の攻撃ではダメージを受けず、死ぬこともないのだから。
「ふむ。確かに厄介ですね」
 そっと氷室は頬を拭う。そこに、赤い線が入っていた。
 切れ目から、血がにじむ。
「ッ……!!」
 それをレイアは目の当たりにした。レイアの視線が氷室の頬に注がれている。
「……?」
 氷室は顔色の変ったレイアを不審な目で見つめていた。彼女からすれば、特段、大きな変化があったわけではない。こんなのは、かすり傷だ。彼女はいったい、何を動揺している?
「あ、くっ……!」
 レイアが倒れなかったのは彼女の根性のたまものだ。塔原の口元にほんの少しにじんだ血にさえ反応した彼女が、ここで倒れなかったのは――守るもの、守らねばならぬものがあるからだろう。
「ほう」
 氷室は口元を歪めた。精霊のことなど知らぬ、だが、彼女が何に反応しているのか、それは理解した。弱点さえわかれば、恐ろしいことなど何もないのだ。
 氷室は周囲に転がる役にも立たなかった兵士たちを眺め、やけにゆっくりとした動作で、内の一つを拾い上げる。
 兵士たちの中でもとりわけ幼い容姿の子だった。首を持ち上げられ、わずかに顔を歪めるものの、目を覚ますことはない。
「よかったですね。月宮様の計画、その礎となれることを誇りに思いなさい」
 つかつかと氷室はレイアに歩み寄る。レイアは逃げることができない。氷室の頬に視線を釘付けにされ、身動きが取れないでいた。
「面白い特徴ですね。血液がそんなに恐ろしいのですか?」
「う、るさい……」
「血を見ただけで気分が悪くなる人間、というのはたまにいるでしょう。ですが、気を失うほど血が嫌いという人間は珍しいことです。精霊としての性質なのか、あるいは、あなたが『核兵器の精霊』であることと関係しているのでしょうか?」
「黙りなさい!」
「そうですね、どうでもよいことです。これであなたは終わりなのですから」
 少女の体を突き出し、氷室はレイアの瞳をじっと見つめる。
「しかと見届けなさい、あなたの抵抗がこの結果を招いたのですから」
 氷室は少女の腕をがっしりと掴む。そのままギリギリと力を込め、
「ほら」
 ぶちり、と筋肉が引きちぎられる。
 バキリ、と骨が砕けた。
 そして噴き出す鮮血。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああ!!」
「あ、あああ……!!」
 レイアの口から漏れる小さな悲鳴は、少女の絶叫にかき消される。氷室は用済みとなった少女を放り投げると、いまだ片手に握ったままの腕を突き出した。
「殺すまでもなかったようですね。どうぞ、こちらはあなたにプレゼントいたします」
 ひょい、と腕を投げ渡す。もっとも、レイアにそれを受け取る余裕などあろうはずもない。
 ぼとりと落ちた腕は地面に転がる。ほとんど同時に、レイアもまた気絶した。