そこは書斎であった。
 左右の壁にはぎっしりと本が詰まった棚が並ぶ。窓際には大きめの机が置いてあり、その上に、マグカップとチェス盤が鎮座していた。マグカップの中で揺れるコーヒーは、すでに湯気を失っている。
 月宮はじっとチェス盤を眺めていた。白い駒と黒い駒。盤面で争う両者。優勢はどちらかと問われれば、それは明らかに黒い駒だ。なにせ、白駒のキングは、クイーンにきっちりとマークされている。一方、黒駒のキングは完全に安全圏内。
「ふむ」
 こんなものか、と月宮は口の中で呟いた。
「意外だな。龍介はもう少し狡猾だったように思うが」
 少なくとも、あの男は死ぬ間際まで諦めるということを知らなかった。
 己の欲望によく従い、自分のやりたいように生きた。その点、彼は尊敬すべき相手だ。誰もがブレーキを踏むところで、彼はためらうことをしない。むしろアクセルを踏み抜くことさえ考えられる。
 人間として持つべき倫理や生存本能というものが、彼からは欠けていた。それは彼自身の魅力に繋がり、実際、彼の周囲には常に人がいた。
 もっとも、それ以外の本質的な部分は、人間として屑としか言いようのないものだったけれど。
「まあ、これでほぼ問題はなくなったわけだ」
 残るは日向と精霊。日向の方は特に問題視するほどのものではない。彼女は霊能力者としては強い方だが、それだけだ。何か特別なことができるわけでも、特別な能力があるわけでもない。
 問題は精霊の方。だが、彼女一人だけならば、どうとでもなるだろう。
 月宮が暇を持て余していると、扉をノックする音が聞こえてきた。彼が待ち望んでいたものだ。
「入って」
 はたして、中に入ってきたのは三人。
 一人は見知らぬ少女。霊力兵の子だろう。改造したのは自分なのだが、顔までは覚えていない。
 一人は氷室。こちらはいつも通り、きっちりとした格好をしている。
 そして、最後の一人は、見知らぬ青年。
「初めまして、雨雲京介」
「初めまして、月宮清史郎」
 両者の視線が重なる。ふむ、と月宮は口の中で呟く。
 ――よく似ている。少なくても外見だけは。
 中身までは、どうともわからないが。
「ようこそ、ボクの屋敷へ」
「歓迎、痛み入るよ」
「なに、たいしたものじゃない」
 月宮はちらと氷室を見る。彼女が雨雲を捕獲した、と言った時は、驚くと同時、予想通りだな、とも思った。
「氷室、席を外してくれ」
「は? いえ、しかし――」
「ボクの指示には全て意味がある。理解できるね?」
「……は、申し訳ありません」
 氷室は頭を下げ、憎々しげに雨雲をにらむと、部下と共に部屋を出て行った。
 氷室の気配が遠ざかるまで、月宮は何も言わなかった。雨雲も口を開かない。静かな時間が過ぎた。
「腰かけたまえ、と言っても、ここには椅子がないんだったね」
「必要ない」
「そうか」
 再びの沈黙。先に口を開いたのは、また月宮。
「雨雲京介。自称・吸血鬼か。自分から捕まるというのは少々意外だったよ」
「そうするのが最も確実な方法だと思ったからね。お前に会うためには。こうして会ってみると、意外と影が薄いな」
「ふうん。それで、会えば説得できるとでも思ったか?」
「交渉の余地はあると考えていたよ」
 過去形。
 よくわかっている。
「氷室さえ言いくるめれば、お前自身は僕の存在を必要とする。それはわかっていたからな」
「ほう。何故」
「僕を試していたお前が言うのか?」
「答え合わせさ」
「……いいだろう」
 白桃。塔原。灰塚。小鉄。そして氷室。
 雨雲たちが戦う羽目に陥った、月宮の部下たち。
「お前の部下は全員が霊力を持ち、戦闘力も悪くはなかった。灰塚や小鉄は特に強かったようだし、氷室も戦闘力に関しては欠点がないだろう」
「うむ。実際、君は結果的にはその武力に屈したわけだ。だが、その過程で何人もの部下を無力化してくれたようだが」
「お前がさせたんだ。
 白桃はそこそこの戦闘力を持っていたが注意力や頭脳は足りなかった。灰塚は忠誠心は群を抜いていたようだが、やはり思考停止に陥っている。氷室に関しては何をいわんや。お前は戦闘力では優秀な部下が多かったが、頭脳面では心もとないメンバーしか揃えられなかった」
「その通りだね」
「僕も少しは頭がまわるから、よくわかる。血の巡りが悪い人間との会話は疲れるんだ。君は戦闘力などなくとも、頭脳を持った相手が欲しくなった。だから試したんだ。この僕を」
「どうやって? ボクはそれなりに真面目に部下たちを配分し、障害に対処させたつもりだが」
「どこがだ。本気で殺すつもりなら分散させるべきじゃなかった。能力の知れないレイアや、存在が知れないこの僕を相手に、白桃や塔原では万が一にも倒せない可能性がある。実際にそうなった。
 本気で殺すつもりならば、最初から灰塚を使えばいい。彼女に殺せない人間はいない。霊力を持っていようが持っていまいが、彼女の銃弾は関係なく撃ち抜くのだから」
「それで?」
「だが、お前は部下を暗殺させ、僕らには土壇場まで殺意を向けなかった。それだけでわかるよ、殺すつもりはないと。
 灰塚を送ってきた時は少し迷ったがね、彼女と会って理解した。お前は灰塚ほどの忠誠心を口先だけで破壊できるか、そして、彼女が持つ情報だけでお前の目的を推察できるか、それを実験していたというわけだ」
 つまりは、最初から手のひらの上で踊らされていただけ。
 必死に生きようと、裏をかこうとあがいて、しかしそれは敵の予想の範囲内でしかなかった。
 お釈迦様の手からは逃れられない。
「戦闘力だけならば後から霊力を付加すればそれでいい。だが、頭脳ばかりはそうもいかない。安易に取り付け可能な能力じゃない以上、ある程度の能力を持つ人間を求めるのは必然だ」
「ひとつ誤解があるようだが、霊力を発生させるのもあまり楽な仕事じゃない。成功よりは失敗する確率の方が高いし、個人の体質や相性にもよるが、究極的には装置を取り付けるまでは使えるか使えないかがわからないんだ。そして、失敗すれば死ぬ。割とリスキーなんだよ」
「だがお前は武力を必要としていない」
「その点に関しては否定する要素がないね」
 雨雲は肩をすくめる。
「だから、まあ、お前とは交渉の余地があった。氷室は人の話を聞かないだろうが、お前ならば、あるいは口先だけで解決する可能性もある。少なくとも、お前の部隊を相手にするよりは可能性が高かった」
「そうかな? 霊力部隊は一般人を相手にするための戦闘力しか持ち合わせていない。霊力を持つ家系で育った日向や、戦闘経験を持っている灰塚にはとても届かなかったはずだ。お前が脅威に思うほどのものは持っていなかったはずだが。
 お前は小鉄と氷室を倒せば、それで敵はいなくなるはずだった。なのにわざわざ氷室を倒すチャンスを自ら捨て、こうして単独でボクのところまでやって来た。愚か、としか言えない行為に思えるがね」
「そうでもないさ」
「……ふん。自己犠牲かい?」
「犠牲にするほどの自分があるとは考えていないよ」
 沈黙。
 雨雲は口をつぐみ、月宮は何も言わなかった。静かな時がゆっくりと流れる。
「懐かしいだろう」
 ふと、月宮はそんなことを言った。雨雲の表情がぴくりと揺れるが、すぐさまポーカーフェイスに戻る。
 そんな雨雲に、月宮は揺さぶりをかけていく。
「お前がこの家を出て行って、もう何年になる」
 それは、雨雲にとって古い記憶。
 忘れてしまうほどの昔、なのにちっとも色あせない記憶。
「あの頃のお前はもっと素直だったな」
「――お前、本当に、何者だ?」
「覚えていないのか?」
「まさか、お前もDDの関係者なのか? いや、この家にいる時点で、何の関わりもないはずがないんだな」
「その通り」
 ずっと探していた人。こんなところで会うなんて。
「DDクラブ、あれはボクが実験に失敗した少女を処理するための遊び場なんだよ」