雨雲京介が目を開いた時、最初に目に入ったのは汚い天井だった。 ああ、これは夢だな、と確信する。夢の中なのに、それが現実の出来事ではないとはっきり理解できた。 意識とは関係なく、体は勝手に動く。起き上がり、いつものように顔を洗い、いつものように仕事を始める。 彼の仕事は少女の世話と道具の管理。きちんと手入れをしないで痛い目を見るのは彼だった。今の彼ならばそれでも反抗し道具の管理などしないか、あるいはせずに済むよう言葉を巧みに操ったことだろう。だが、当時の幼い彼にそれだけの能力があるはずもなく、結果、大人たちが命じるままに、処刑道具の手入れをしなければならなかった。 それぞれの道具の使い方を、雨雲少年は詳しく知らなかった。知りたいとも思わなかった。少女たちの悲鳴を聞くだけでも精神が壊れてしまいそうだった。 いや――すでに、壊れていたのかもしれない。まともな神経では、とても生きていられなかっただろうから。 本当に最低な連中だったな、と雨雲は記憶をさらう。 当時の彼とさほど年齢が変わらない、まだ幼い子供たち。大人には絶対に抵抗ができない無力な存在を、連中はもてあそんでいた。 何本もの細い杭は血が落ちず、刃こぼれしたのこぎりはどう手入れしても切れ味を取り戻すことはない。 少年はそれを知っていながら、懸命に洗う。それでも罪を全て洗い流すことなどできやしない。 時間になると、少年は食事を運ぶ。少女たちには食事だけは十分なものが与えられていた。だが、それをきちんと食べられる人間はいなかった。 いつ死ぬとも知れない生活。死を待つのではない、苦痛を待つ生活。 死にたいと願っても死ぬことはできない。舌を噛み切って死ぬ、ということさえ思いつかない少女たちは、どうすれば死ねるのかもわからないまま、ただ牢獄で待ち続けるしかない。 雨雲少年は、できる限りそんな少女たちを見ないようにしながら食事を運んだ。自分が注目すればその少女の苦痛が早まること、より激しい責苦に遭うことだけは知っていたから。 「悪夢、か」 少年の口から青年の声が漏れる。 「そうだな、悪い夢ならばよかった。悪夢はどこまで逃げても逃げ切れるものじゃないが、朝が来れば嫌でも覚めてしまう。 だが、現実はそうもいかない。逃げることもできず、戦うこともできず。子供にとって世界とは親が与えるものが全てだ。その狭い世界こそが彼らの限界で、その外は憧れるものでしかない。 外に世界があることは知っている、ただ、それを実感することができない者にとって、外の世界は架空の世界と同義だ。もっと広い世界を知ればいい、なんて言う奴もいるが、それは馬鹿げている。自分で檻の外に出れば、なんて愚の骨頂だ。 それが可能であるなら誰だって挑戦する。子供たちに、それは、『できない』んだよ。どんな最低な親でも子供にとっては親で、そこから離れることなんて、それは子供が子供でなくなるということだ。どんな人間だって自分でなくなることに対しては恐怖するだろう? お前たちは知らないんだ。あるいは忘れてしまったのか? 僕たちにとって世界とは自分が知っている範囲の出来事でしかない、そして、世界という器が小さければ小さいほど、そこに絶望が満ちるのも難しくはないんだ」 誰に対しての言葉なのかさえわからない。何を言っているのか、自分でも理解していない。ただつらつらと思いつくままの言葉を垂れ流しながら、少年は給仕を続ける。 「確かに、僕には罪などないのかもしれない。自分が生きるために板を掴んだからといって、船員が責められることはついぞなかった。緊急避難だ。 じゃあ、五人を救うために線路を切り替え一人を犠牲にすることは悪か? 誰かを助けるためには誰かを犠牲にしなきゃいけない。それが自分か他人かはわからない、だが、誰かが犠牲にならなきゃ人は生きていけないんだ。 人の生は犠牲の上に成り立つ。人の幸せは死合わせだ。多くの死の上に成り立つ幸福。そんなものに何の意味があるというんだろう」 給仕を終えた少年は、扉に向かう。その向こうは夢の世界の外であると、なんとなくわかった。 だから少年は扉の前で足を止める。後ろを振り返ると、檻の中から少女たちがじっとこちらを見ていた。 何十もの瞳が全てこちらを見ている。そこに色はない。何の感情も浮かんでいない、ただの眼球が少年の姿を捉えている。 どの少女にも見覚えがある。あの子は心臓以外の全てを傷つけられて死んだ、あの子は下半身を失うまでは意識を保っていた、あの子は――。 どの少女も、すでにこの世の人ではない。彼女たちの一人でも霊力を持っていれば、あんなことにはならなかったのに。 「許してくれと言うつもりはない」 青年の声が、少年の意識の外から宣言する。 「僕は君たちに対して償いきれない罪を背負った。あるいは、僕が反抗していれば、君たちは助かったかもしれない。たとえ自分の身を守るためとはいえ、ならばそのためにどこまで犠牲にして許されるのか。僕は哲学者じゃないから、そんな議論をするつもりはないが……。 ひとつだけ、言えることがある。僕は君たちをそんな風にした人間を、存在を認めない。ああ、これは僕のエゴだな。で、それが何だ。 DDクラブは認めない。いかな理由があろうとも、あいつらは純粋な悪だ。あいつらを拒絶すること、それが、今の僕が生きていられる理由なんだから」 だから。 「僕は行くよ。行かなきゃいけない」 光の向こうに、少年の姿は消えていく。 汚い部屋だった。 乱雑に物が置かれ、それらが片付けられることはない。部屋の主は部屋を片付けようとしなかった。 それは彼の心に起因した。彼の遠い昔の記憶、幼い頃は、彼の部屋には何もなかった。束縛などされていなかったが、牢獄のようなものだった。 綺麗な部屋、片付いた部屋は、昔を思い出す。だから彼は、部屋を片付けることだけはかたくなに拒んだ。 「京、君」 そんな部屋に呆然と座り込んでいたのは一人の女性、日向雪乃。かたわらの刀も、居心地が悪そうにしている。 「まあ、無事ではないでしょうねぇ」 ベッドの上で片膝を立てているのは少女のようにも淑女のようにも見える不思議な女性、レイア。精霊である彼女は気を失うことはあっても死ぬことはない。しかし彼女は、立風宗也を救うには至らなかった。 「……」 そして、部屋の隅には狙撃銃を抱えた少女、灰塚。彼女はどこを見つめているのかわからない視線をさまよわせている。 「それで、どうするの? 京介も宗也もいなくちゃ、あたしも面白くないわぁ」 「……なら、いずこへとも行けばいい」 ぽつりと返したのは灰塚だった。日向は聞こえているのかいないのか、何の反応も示さない。まるで、心が体から離れてしまったかのようだった。 そんなまるきりの抜け殻を眺めながら、灰塚は言葉を続ける。 「私たちが集ったのは雨雲京介という人間の周囲。私とあなたには何の関係もないし、あなたたちにも繋がりはない。なら、別れてしまえばいい」 「そうねぇ。確かに、全ての中心は京介だったわ。あたしたちには繋がりも関係もない。あいつがいたから、あたしたちは知り合うことになった。ということは、つまり」 レイアはベッドから立ち上がる。ふわりと浮きあがり、質量を持たないその体で外を目指す。 「あいつがいれば、それでいいってことよね?」 「……雨雲京介が、まだ生きていると?」 「さあ、どうかしら。でもあたしは、あいつの死体を見ていないわよ?」 「生きている可能性は、低い。氷室が感情に任せれば霊力を使えない雨雲京介は簡単に死ぬ」 「感情なんてそれこそ論外だわぁ」 くすっと笑う。その姿に、何故だか灰塚は震えた。 「感情。気持ち。人間が持つもの。それを人間が御せない理由があるのかしらぁ?」 「そんな、無茶な。理性で制御しきれぬものを感情と呼ぶのでは?」 「それをするのが雨雲京介という男じゃなかったかしら」 灰塚は沈黙する。代わり、日向を見た。 何も見ていなかった日向の瞳に意識が戻り、四肢に確実な力が込められていた。 「京君が、生きている?」 「かもしれない、ってだけ。でも、そんな気がしない?」 そう。あの男は殺しても死なないような男だった。 白桃に襲われても生きていた。灰塚に襲われても生きていた。小鉄に襲われたって生き伸びた! 単独ではなかった、近くには常に力を持つ者がいた。だが、そうでなくとも彼は生き続けてきた。 日向に出会い、レイアに出会い、灰塚に出会った。 彼という存在が、人を動かしている。 ならば、信じないなんて嘘だろう。 「さあ、行きましょうか。あのバカを迎えに」 日向は黙って刀を手に取り、灰塚は狙撃銃を肩にかける。 三人の女が動き出す。たった一人の男を迎えるべく。 |