目を開くと綺麗な天井が見えた。
 雨雲はゆっくりと体を起こす。自分の部屋にある寝床とは比べ物にならないほど心地良いベッドだった。だが、良い寝床と良い夢とはあまり関係がないということを、彼は身をもって知った。
「まあ、こんなところで良い夢が見られるわけもないか」
 この家でそんな夢を望めるはずもない。
 と、まるで雨雲が起きるのを待っていたかのようなタイミングでノックがされる。応じると、静々とパンツスーツの女性が入って来た。
「氷室か。僕に何の用だ?」
「月宮様よりあなたの世話をするよう命ぜられましたので。朝食のご用意はできておりますが?」
 述べ、恭しく頭を下げる。こうして見る限りでは、本当によくできた使用人だ。自分の意思を殺せている。
「……いや、いい」
 しかし、今の雨雲は、とても食事ができるような気分ではなかった。
 氷室はそんなことなど欠片も気にしたそぶりは見せず、
「そうですか。それでは、月宮様がお呼びです、三十分後に月宮様の書斎にお越しください」
「いいのか? 今の僕はあいつを本気で殺しかねない」
「あの方があなたごときに殺されることなどありえませんので。それに」
 氷室の瞳が怜悧に輝く。
 ああ、とても冷たい。それはさながら人ならざる者の瞳。死者の怨念の瞳。
 夢で見た少女たちの顔が重なり、雨雲は少し気分が悪くなった。
「もしも月宮様に手をあげるようならば、たとえ命令に背くことになろうとも、私はあなたを殺します」
「そうか」
 では、と慇懃に礼をして、氷室は退室した。
 雨雲は額に手のひらを押しつけ、じっと自分の足を見つめる。その先にある、何か。
「殺して、殺されて。バカみたいだな」
 いや。最終的に暴力に頼っている時点で、愚か以外の何物でもない。
 思い直し、雨雲はベッドから這い出した。

 この家に連れて来られてから、家の間取りについて案内してもらったことはない。だが、それは雨雲にとっては別に必要なものではなかった。長く住んだ家だ、地下ばかりで過ごしていたとはいえ、間取りを間違うなんてことはそうそうない。
 月宮の書斎は、皮肉にも彼が最も嫌っていた部屋だ。扉をノックもせずに開くと、月宮は雨雲の到来を待ち構えていた。
「やあ。昨日はよく眠れたかな?」
「最悪の夢を見たよ」
「それは良くない。足りないものがあれば言ってくれ、いつでも、何でも用意しよう」
「随分と良い待遇なんだな」
 どこかの部屋から持ってきたのだろう、一人がけのソファがあった。雨雲は、どこか脱力した調子でその椅子に腰を下ろす。
「当然だ。君は未来の幹部なのだからね」
「軍隊でも作り上げる気か?」
「それも面白い」
 ふん。雨雲は横目で月宮をにらむ。
「それより昨日の話の続きといこうじゃないか。そのために僕を呼んだんだろう?」
「いちいち説明せずに済むのは楽だね。取り乱さないでくれるとなお、助かるんだが」
「それはお前の発言次第だ」
 DDクラブ。その名前を聞いて、雨雲が冷静でいられなくなったのは無理からぬことだ。
 実際に手を出したわけではない。何をしたわけでもない。だが、雨雲の瞳に宿った殺気を月宮は見逃さず、だからこそ、彼はそこで話を中断させた。雨雲にもその意味がわかったから、あえて話を続けるような真似はしなかった。
 二人の男、その視線が交錯する。
「DDクラブはボクが作った、という話まではしたね」
「ああ。実験に失敗した少女を処理するための場所だ、と言ったな」
「その通りだ。霊力を発生させるというのは一般人にはひどく難しいことでね、失敗すれば死ぬことが多い。だが、仮に死ななかったとしても、次のチャンスがあるわけじゃない上、ひどく短命になることが実験の結果としてわかっていた。
 かといって、残りの短い生を表の社会で過ごさせるわけにはいかない。そうなれば殺さざるをえないわけだが、ただ殺すだけでは面白くもなんともない。ボクは別に快楽殺人者というわけでもないしね。だからDDクラブを作ったんだ」
「彼女たちはどこから集めた?」
「ボクは表の世界では孤児院を経営している。塔原なんかはそちらで知り合ったんだ。あるいは灰塚や小鉄のように、紛争地域で拾った人間もいる。いずれも家族を持たず、探す人間のいないような連中ばかりだ。世の中、これほど平和になった世界でも、天涯孤独というのはそう少なくないんだよ」
「友人の話をしているわけじゃないんだ、そういう言い方はやめろ」
「その点はどうでもいいことだと思うがね。表向きに孤児院を経営しているのはクラブのメンバーだが、実質的な管理はボクが行っていた。そういった、必要なメンバーを集めるために、龍介は役立ってくれたよ」
「お前は、あいつと、どこで知り合った?」
「それは話す必要のないことだと思うが」
 そこで、雨雲の表情に微細な変化が訪れた。それは一瞬の後には隠されてしまったが、月宮は見逃さなかった。
 だが、彼はあえて何も言わず、話を続ける。
「龍介、龍介か。あの男は優秀だったよ、本当に。天才と狂気は紙一重だ。凡人には計り知れないその思考は、他人にとって良い結果をもたらせば天才と呼ばれ、逆に悪い結果をもたらせば狂気と評される」
「お前の言葉遊びなんかには興味ないよ」
「そうかな? 君は言葉遊びが好きなんだと思っていたが。吸血鬼を名乗ったのもそういう意味だろう?」
「……、どういう意味だと?」
龍公ドラクルの息子、すなわち吸血鬼ドラキュラだ。もっとも君はワラキア領主と違って高慢な思想を持っているようには見えないがね」
「僕は政治家でなければ宗教家でもない、ただの無職だからな」
「誇ることじゃない。ともかく龍介がいてくれたおかげでボクの計画は大きく前進した。DDクラブの結成も、彼がいなければ不可能だったろう。内面の腐敗とは裏腹の人脈の広さ。あれは頼りになる」
「あんな人殺しが、か」
「人間には誰しも娯楽が必要なんだ。そうすることによって明日の活力を手にしていく。彼にとってはそれが殺人であったというだけの話だよ。『Dominate Dead死を支配する』なんて、いかにも彼らしいじゃないか」
「死を支配する存在、それを人は死神と呼ぶんだよ」
「それが何だ。いや、むしろ誇っていいんじゃないのか? 人の身で神様になれるのだからな」
「はん、僕は神様なんて存在に好意を持ったことは一度たりともないがね」
「まあ、君の場合は神様に恵まれた存在とは言い難いからね。
 だが、あえて言おう。DDクラブは必要悪だ。法律さえ超えた場所にこそ本質的に必要なものがある。倫理や道徳に縛られ、常識の中だけで生きる人間には絶対に得られないものがそこにある。それが人類には必要なんだ。
 人を殺してはいけないという、だがその理由を論理的に説明しようとするとややこしくなる。何故か。本当にいけないことなら、そんな小難しい説明など不必要なはずじゃないのか?」
「それは子供が考えることだ。まともな人間の考えることじゃない」
「ならば君は語れるのか? たとえば、そう、小鉄は軍人として人を殺した経験がある。あるいは灰塚、あるいは日向、あるいは氷室。彼女たちは必要に迫られ、あるいはそうでなくもっと無意味な理由によって、人を殺した経験がある。
 彼女たちは悪か? 悪であるなら、彼女たちを罰するのは誰だ? それは何故? 殺さなければ生きられない彼女たちは生きるためにこそ殺した。ならば、生きるためには誰を殺してもいいのか?」
「話をすりかえるな。お前たちは絶対悪だ。楽しむために人を殺した人間を、社会は認めるわけにはいかない。社会としての機能を失わせる可能性を持つ存在は排除するしかないんだ」
「それは社会に生きる人間に対して語られるべき言葉だ。ボクや君には関係がない」
「じゃあお前は野の猿にでもなるつもりか?」
 下らない。そう言いたげに肩をすくめ、雨雲京介は眼前の敵を見据える。
「いまさらお前に人間のルールを説くつもりもない。人ではないものに人のことを語っても仕方ないからな。だから、仮に言えることがあるとするなら、僕はお前を認めないということだけだ」
「それは人道にもとる、という意味かな?」
「いや、言葉通りの意味だが」
 雨雲の瞳。その中に映るもの。
 月宮は気付いていた。雨雲の表情が暗く昏く堕ちている。彼が待ち望んだ、彼が欲したあの男の息子。その顔は、本人は否定するだろうが、龍介にそっくりだ。
 蛇さえ喰らう龍。狡猾で力強く、何もかもを蹂躙する存在。
「お前は人間じゃない。精霊だ」
 月宮の目が細く、細く閉じられる。