「さあ、形勢逆転だね、白桃。いや……、最初から形勢は決まっていたのか」
 青年の笑みは、多くの者を凍らせる。
「吸血、鬼……? そんなの、そんなのいるわけないじゃん」
 あまりに常識外れの存在。常識の裏側にいる彼女さえ、そんな存在が実在していると聞いたことさえない。
 どころか、そもそも彼女は人間以外の化物には会ったことがない。それは実在しない何よりの証ではないのか?
「そう思うかい」
「あ、当たり前じゃないの」
 言葉が若干、震えてしまう。この、言い知れない不安感は何だ?
 白桃がその正体に気付くより早く、雨雲は動く。
「日向」
 仲間の女性を呼んだ。剣士の女性は白桃に対して警戒しつつも、雨雲に寄り、腕を伸ばす。
 雨雲は平然と日向の袖をまくると、あろうことか、その白い腕に噛みついた。
「!?」
 状況を理解できなかった。
 雨雲は腕から口を離す。その口元には、真新しい鮮血が、たらりと垂れていた。
「吸血する生物というのは別に珍しくもなんともない。こうもりやノミ、蚊などが血を奪うのは、それが最も効率的な栄養素だからだ。液体であるがゆえに重量はそこまでなく、消化や吸収も簡単。そうやって進化した結果、彼らは吸血という手段を得た」
 僕も同じだ、と雨雲は自身を指す。
「霊力を持つ人間から吸血すれば、効率よく霊力を吸収することができる。僕の場合、障壁なんかは自信ないけどね、集めた霊力を銃弾に込めることは可能なんだ」
 改めて、銃口が白桃に向く。
「質問だ。君はなぜクライアントに従う。肉体を捨ててまで」
「ッ!!」
 どこまでだ。
 この男はどこまで知り、どこまで見抜き、どこまで未来を見通している!
 白桃の肩から、力が抜けた。この相手には隠し事など意味をなさない。そのことに、ようやく気付いた。
 なら、今は交渉を続けよう。口先で可能性を見出し、せめてあの銃口が違う方向を向かない限りは、彼女に可能性はない。確かにスピードには自信があるが、銃弾より早く走ることはできないのだから。
「……、つきみー、生き返らせてくれるって」
 白桃が脳裏に描いたのは、一人の男性の姿。
 もう二度と会うことはない、そう思った愛しい人。
「なるほどね。だがそれは嘘だ」
「……」
「霊力というのは生きた人間が生み出す、生きようとする力だ。死んだ人間は霊力を使えないし、いかな霊力といえど死んだ人間に作用することはできない。なぜなら、死んだ人間は生きるための脅威とはなりえないからだ」
 生き物が生きようとするための力。生きるためには外敵から身を守らねばならず、生き物を喰らわねばならない。
 霊力とは、つまるところ、そういう力なのだろう。自分の体をあらゆる敵から守る『障壁』。自分にとって脅威となりうる敵を殺す『強化能力』。生存競争に勝ち残るための『特殊な力』。
 どれをとっても、生きるための力。決して、死者をどうこうするための力ではない。
「いかな天才といえど、死者は蘇らない。第一、死者を蘇らせることが可能なら、君たちを使う必要はなかった。優秀な死者を蘇らせ、自分の配下とすればそれで済むのだから。日本人だけでも優秀な霊力持ちはかなりいたはずだね」
「――ってるわよ」
 小さな声だった。雨雲にも言葉は届かなかったが、何を言ったのかはわかっていた。
 日向に目配せする。彼女も無言でうなずいた。
「わかってるわよッ!!」
 直後、怒りを爆発させた白桃の一撃が雨雲に襲いかかった。感情的な、直線的な攻撃。早いことは早いが、どこから、どのように来るのかわかっているならば、日向にとっては攻撃のうちに入らない。
 鋭い槍の突きは、しかし日向の刃に阻まれる。耳障りな金属音が高らかに鳴り響き、白桃は泣きそうな顔をさらにゆがめる。
「そんなことは言われないでもわかってるッ! でも、じゃあどうすればいいのよ! どうすれば彼に会えるのよ! どうしたって会えないじゃない! もう死んじゃったんだから! もう会えないところにいるんだから!」
 霊力が槍の先端に集まっていく。
 突きが、斬撃が、その威力を増していく。
「愛しいのは変わんないのよ、忘れることなんかできないのッ! どうしたって、何やったって彼に会いたいのよ! あんたに、あんたにその気持ちがわかって言うの!? あんたみたいな頭いいやつには絶対にわかるわけない! これは、この感情は、あんたなんかにわかるもんかァァ!!」
 ひときわ強い一撃を、日向は受けるのではなく流した。勢い余った白桃はそのまま穂先を床に突き刺してしまう。その上から、日向は刃を下ろした。
 先端に集まりすぎた霊力は、槍そのものを守るためには役立たない。半ばから断つことは、そう難しいことではなかった。
「ッ!」
 急に支えがなくなったものだから、槍に体を預けていた白桃はよろめく。その体を、雨雲はそっと支えた。
「僕は君の愛しい彼とやらは知らないし、君が過去に縛られているかどうかなんてことも興味がない。僕が興味を持てることといえば、君の上に立つ外道の話くらいだね」
「あ、んた……?」
「まあ、いい」
 雨雲京介は白桃を床に座らせると、部屋の隅に転がった死体を眺めた。
「さて、ずらかるよ、日向」
 随分と派手にやりすぎてしまった。もう人が来るまで間もないだろう。ここに正式な方法で入ったわけではない雨雲たちとしては、人の目に触れるのは避けたい事態でもある。殺人の濡れ衣など着たくもないし。
 慌てたのは、むしろ白桃の方だった。
「ちょ、ちょっとあんた、あたしのことはどうするのよ」
 白桃の質問に、雨雲は若干ながら戸惑いをその面に浮かべた。
「どうするって? 下まで送り届けるくらいならしてもいいが」
「そうじゃなくて! あたしはあんたの敵なのよ!? 殺したり、反撃できないようにしたりしないの?」
「しないよ。理由を挙げるなら、まず君は脅威になりえない。さらに今の君に再び僕たちと戦う意思が残るとは思えない。そして、そういうのは僕の趣味じゃない」
 雨雲はぽん、と頭に手を置き、軽くなでてやった。
「僕に殺して欲しいのなら、まずは相応に強くなるべきだ。弱い人間の血はね、飲んでも美味しくないんだよ」
「あ、う、あ……」
 白桃は言葉を失くす。交渉どころの話ではなかった。何を言えばいいのかわからない。色々なことがありすぎて、すでに白桃が受け止められる限界は超えている。
 不思議な男だった。彼自身、まだ一発の銃弾も放っていない。なのに、彼女はその男の前に屈服している。
 あるいは、それこそがこの男の力なのかもしれない。
 ほんの数分前の自分が、まるで別人のように思えた。
「白桃。君自身の決意は立派なものだろうさ。だからこそ、その男に全てを委ねてはいけない。自分の道は自分で決め、自分の足で歩く必要がある。それができることこそが強さだ」
「そ、んなの、言われないでもわかってる……」
「そうか。それなら僕が言える事は何もないね」
 雨雲は、うなだれる白桃の下あごに手を添えると、そっと上向きに持ち上げる。
「努力すること、それ自体は美徳だ。だが、強がることは美徳じゃない」
「何よ、それ……」
「君は努力をしている。見ればわかる。ごく普通の人間に過ぎなかったであろう君が、こうして戦いの場に立てるまでになった。それは君自身が頑張ったことで手に入れた成果だ」
 だけどね、と続ける雨雲の声は、優しく、甘い響きがあった。
「時には他人の力を借りていいんだ。君の主は君に力なんて貸さないだろう。もっと広い世界を歩いてみるといい。裏社会は決して平和なところではないけど、君に力を貸す人間はいるだろうからね」
 後ろでかすかなため息が聞こえた気がしたが、雨雲はあまり気に留めない。
「孤独に生きる者は気を張り続け、休まる時はない。何もかもを自分の手で管理する必要がある。それが、君にできるか?」
「――できる、に、決まってんでしょ」
 返答は遅く、弱かった。
 しかし雨雲はそれでいいとばかりに頷き、
「ならいい。ただ、君にこれを渡しておくよ」
 雨雲はポケットの中から小さな紙切れを取り出した。白桃が受け取ってみると、それは肩書のない名刺だった。
「いずれまた、どこかで会うこともあるだろうさ。その時は、もう少し美味しくなっていると助かるね」
 行くよ、と身振りで示す雨雲。日向は黙ってそれに従おうとして、
「待って」
 白桃の声に両者の足が止まる。
「あたしが、その、何かを話したら……、アドバイスくらいは、くれるわけ?」
「もちろん?」
「じゃ、じゃあ、聞いてみたいことがあるの」
 白桃は見上げる。その先に立つのは、底を見切ることができない、吸血鬼を名乗る男。彼もまた、白桃をじっと見返していた。
「あのね、あたしを――」
 紡げた言葉は、そこまでだった。
 白桃の、涙さえ浮かんでいた顔が弾けた。血が、肉片が降りかかる。グロテスクな断面さえはっきりと見える距離。雨雲の瞳には、ゆっくりと倒れる“物体”がはっきりと映っていた。
「日向!」
 両者とも、判断は早かった。日向は雨雲を抱きかかえると、すぐさま天井の穴から逃げ出す。
 びちゃり、と死体が崩れ落ちたのは、その後の出来事だった。