日向雪乃は、関西の旧家の生まれだ。
 日向家といえば、その筋では有名な名前でもあった。すなわち、霊能力の使い手として。
 霊力を使える人間は非常に少なく、しかもその能力は血筋の濃さに比例する。それを、口さがない連中は化物と呼んだ。
 化物同士で婚姻しなければ化物の血は残せない。だから連中は化物とだけつるんでいればいい。
 そんな、裏の世界でも差別されるような家柄であるということ。それは、幼少の日向雪乃にもわかっていた。それでも、彼女は幸福を感じていた。霊力を使えるという一点を除けば、そこにあったのはごく普通の家庭の幸せだった。
 幸せが途切れたのは、彼女がまだ十にも満たない頃。
 化物と呼ばれるような彼女たちが平穏無事に過ごせていたことこそ、むしろ奇跡だったのかもしれない。
 その日、彼女が何も知らないままに外出先から戻ると、家は血の海となっていた。
 そこには父も母もなく、ただ肉の塊だけが転がっていた。
 ――それから、彼女は変わり果てた。

 荒い息を吐きながら日向は家々の屋根を飛び跳ねてまわる。かわらを踏み砕き、アンテナを蹴り飛ばし、それでも止まることはできなかった。
 ふっと進路を変える。そのすぐ後を別の影が追う。
 今、日向は敵から逃げていた。追っ手の数は三、いや、たった今さっき増えたのだから四人か。
 今日は運が悪かった。単独と見て取った相手に仕掛けてみれば、偶然、その近くに居合わせた知り合いがいたとは。
 一対一であるなら負ける道理はないが、一対四ではさすがに分が悪い。ここはおとなしく引くべきだろう。相手がそれを許してくれるのなら、だが。
「さすがにそれは無理、ね」
 逃げる際、隙を生み出すためとはいえ、最初に接触した一人を殺害している。この状況で逃がしてくれるわけもないだろう。となると、どうにかしてこの四人を殺すか、せめて追いかけられないくらいには痛めつけないといけないわけなのだが。
「……あそこなら」
 四肢に力を込め、日向は一挙に繁華街まで飛び跳ねた。そして、路地裏のひとつに降り立つ。そのすぐ後、前後を二人ずつの敵が挟み込むようにして降りてきた。
「女ひとりを相手に随分と手が込んでいるのだな」
 腰の刀に手をやりつつ、日向は前後の敵を確認する。
 前の二人は洋風の剣。後ろは槍と刀か。
 後方は敵にならないと判断し、日向は意識の過半数を前方に向けた。
「お前がただの女ならひとりで十分だったのだがな。霊力を使える、しかも日向の家の者ともなれば放っておくこともできん」
 前の男が律儀に答える。それにしても、そうか、彼はこちらが日向だと知っているのか。
「霊力さえ使えれば女でも兵隊に勝てる。同じ霊力の使い手でも、気を抜けばすぐさま殺される。霊力は人間が持つポテンシャルの強調だ、警戒し過ぎるということはない」
「要するに、怖いんだろ。素直にそう言え」
 言葉を吐きながら、日向は内心で舌打ちする。
 こいつらには油断がない。それが恐ろしい。
 彼らの言う通り、霊力はその意思さえあれば、銃弾だって弾く壁にもなるし、建物さえ断裂せしめる究極の刃にもなりうる。
 仕組みも何も完全にはわからない能力だけに、何が起きてもおかしくない。熟練した霊能力者ほどその意識は強く、常に警戒は怠らないのが常識だ。その点において、前に立つ敵はなかなか優秀と言える。逆に言えば、後ろに立つ連中は警戒の意識が甘いため、経験が足りないと言えるだろう。
 日向は霊能力者として普通で、特別なことは何もできない。ただ刀を強化し、振るうこと以外の能力を持っていない。だが、敵はそこまでは知らない。だから、警戒する。
 もっとも、知っていたところで、対処などできようもないのだが。
 じりじりと、にじりよる。敵は剣を構えたままで動かない。
「恐怖は悪ではない。それは人間として生まれ持つ本能だからな。できるなら、そのまま本能に従って逃げてくれると助かるのだが」
 日向の脅しにも、敵はぴくりともしなかった。油断はしていない、だが逃がすつもりもない。自信と恐怖、どちらが勝っているのかと考えるまでもなく、明確な自信を感じ取れる。
 それならば、まずは自信を打ち砕けばいい。
 間合いの半歩手前で止まる。これ以上は簡単には進めない。なにせ、相手の間合いにも入ってしまうのだ。
「良い判断だ。何もない、フラットな条件であるなら、お前の武器が俺の武器に勝つ道理はないからな」
「どうかな」
 口では強がってみるが、実際、武器に込められる霊力量は相手の方が明らかに多い。器の質量が大きさに影響する以上、こちらより重量のある洋剣が相手では……、こちらが負ける。
 そう、霊力の量だけで言えば、負けるのだ。
 その時点で、日向は判断した。
「お前」
 口元に浮かぶのは笑み。彼女は、これから起こすことを後悔するつもりはない。
 むしろ、楽しいかもしれない。
「弱いな」
 無造作な半歩。踏み出し終えた時には、もう一人目は死んでいた。
 そのことに隣の人間が気付くことはない。気付くより早く、首と胴体が切断されている。
 血が飛び散り、びちゃびちゃと陰湿な音を奏でる。
「これで二人」
 日向は後ろに向き直った。刀についた血のりを振って落とす。霊力のコーティングがある以上は意味のない行為だが、相手はそれだけでびくりと震えた。
「何が起きたのかわからない、そういう顔をしているな」
 呆然とする両者を見て、日向はますます笑みを深める。
「別に私は特別なことなど何もしていない。見ていてわからなかったか?」
 彼女の能力は、あくまで刀を振るうだけのもの。刃に込められる霊力の量も、根本的な肉体の強さも、男である彼らには決して届かない。
 だが、それだけのことだ。
 生き残る人間を決める要素は、純粋な霊力の量や、まして肉体の強さなどではない。彼女はそうやって生きてきた。
「障壁は通常の銃弾や刀剣程度ではダメージを受けない最高の壁だが、霊力を込められた武器を止めるほどの能力はない。それはお前たちも承知しているだろう」
「だ、だけど、今、お前、消えて!?」
「人間が消えるはずがないだろう? 私はただ刀を引き抜き、相手を斬った。ただそれだけの動作しかしていない」
 ただし、霊力を持つ人間をもってしても捉えられないほどのスピードで。
 彼女の得意とするもの。それは、瞬発力。
「単に私は、お前たちが常に垂れ流している無駄な霊力を一切合財、一瞬で爆発させている。ただそれだけのことだ」
「そ、んな、ことで……!」
 明らかに動揺している。それが彼女には霊力のよどみとなって見えていた。
「さて、私の能力は教えてやった。次はお前たちの順番だな」
 刀を正眼に構え、敵を見据える。
 迫力に、敵は少し後ろに下がった。
「お、教えると、思っているのか?」
「ああ、いやいや、そういう意味じゃない。敵に能力を教える必要なんてない」
 ごく簡単なことだ、と日向は告げる。
「防いでみせろ」
 それは、死刑宣告。
 足に腕に力を込めて、剣を扱う者ならば何百何千何万と繰り返した動作を行う。ただし、そのスピードだけは尋常ではなく。
 結果、彼らにその攻撃を防ぐだけの術は残されていなかった。
 一人は頭を輪切りにされ、もう一人は武器ごと胴体をまっぷたつにされ。とどめと言わんばかりに、日向は両者を縦に裂く。
 血が海となって広がる路地裏。壁にも道路にも血・血・血。むせかえるような死の臭いは、立っているだけでも気分を悪くさせる。
「ふう、助かった……」
 その中で、日向は安堵のため息をついた。
「こいつらが強くて助かったわ」
 もしも、何も考えずに突っ込んできたら。そうしたら、死んでいたのは自分の方だった。彼女の能力はあくまで少数を殺すためのものであり、四人もの人間に襲いかかれては、せいぜい一人を道連れにすることが限度だったろう。
 相手が適度に警戒しつつ、こちらの攻撃に応じることができない程度の、絶妙な強さだったからこそ可能だった戦い。ギリギリで運が良かった。
 刀の霊力を消し去り、鞘に収める。そうして、自分が起こした惨劇を改めて見回した。
 痕跡は、まあ隠せるはずもない。ならばさっさと逃げるが吉か。
「じゃあ……」
「まあ、そう急ぐなよ」
 油断した。
 柄に手をかけ、敵を見据える。血でぬめる足元が鬱陶しい。
「初めまして、殺人鬼さん」
 びちゃり、と血を踏みながら姿を見せた、一人の青年。優しい笑みを浮かべた、一見しただけではごく普通の人間。

 ――それが、雨雲京介との出会いだった。