なんだ、こいつは。
 日向は震える。目の前の人間が理解できない。いや、本当に人間なのか?
 これだけの状況。惨事。普通の人間ならば目をそむける光景であるはずだ。
 なのに、なぜ、この男は平然とこちらを見つめている? あまつさえ、口元に薄い笑みさえ浮かべることができる!?
「どうかした?」
 ゆっくりと歩み寄る男性。足の下で血だまりがびちゃりと嫌な音を立てる。
 確かに、この惨状を作り出したのは、他でもない日向自身だ。だが、まともな人間なら、この惨状を見て何も思わずにいられるものなのか?
 もしかして、この人間も――こちら側?
 考えた瞬間、日向は思い出したように鯉口を切った。男性の足が止まる。
「お前。何者だ」
 質問に、男性は首をかしげた。
「うーん。何者、と言われると、困るけど」
 瞬間。まるで、そこに立っている人間が別の人間にでもなったような気がした。
 いや、最初からそうだったのだ。自分がそうであると気付かなかっただけで。
 この男は、最初から薄笑いを浮かべ、平然としていた。だから、あの目も、最初からああだったはずだ。
 あの、無感動で無感情で、驚愕も恐怖も悲哀もない、何の色もない目!
「なんて答えればいいかな」
 逆に問い返す男。その姿に、ふと、日向は思い出す。
 そうだ、なぜこんな簡単なことを忘れていたのだろう。予想外の人物の乱入、そしてその得体の知れなさに、自分はどうかしていた。
 何も迷うことなどない。この人間を殺して立ち去ればそれで終わりなのだ。別に深く考える必要も、目の前の人間がどこから来た何者なのかも知る必要などない。
 自分はただ、立ちはだかるものを切り飛ばせばそれでいいのだ。四人を殺したように。
 思い直し、日向が刀を握り直したタイミングを狙うかのように、男性は再び口を開く。
「例えば。首を落とし、心臓を貫いて、それでも死なない人間っていると思う?」
「は? いきなり何の話だ」
「いや、だから例えばだってば。仮に首と胴を分かち心臓をえぐり出し四肢を打ち砕いてなお、生きられる人間なんて存在すると思う?」
「……それ、は」
 なんとも言えない。それが正直なところだ。
 この、常識の裏側という世界を、自分はたくさん見てきた。そして、その中でわかったことは、ありえないなどという言葉こそありえない、という結論。
 この世界では何でも起こりうる。どんな状況も考えられるし、いきなり荒唐無稽としか言えない話が現実になることだってある。
 それがわかっているから、今の質問にも、素直に答えることはできない。
 常識的に考えれば、それはすでに人間ではない。首を切断してなお生存する存在など想像もできないが、それが絶対にありえないとは言い切れない。ここは、そういう世界だ。
「今、迷ったね。そして、それが正しい。本当にありえないのか。それとも、ありえないと思い込んでいるだけで、実はありえるのか。その見極めは難しい」
「くっ……」
 そう言われてしまうと、剣を突き刺すことが非常にためらわれた。
 そういえば、この男は現れたその瞬間から、やけに無防備だった。今も武器らしき武器は持っていないし、何かしらの怪しげな術式を発動させる気配さえない。それどころか、霊力を身にまとっている気配さえない。
 細い首は手が届きそうだし、心臓など簡単に貫けそうに見える。
 だが。
 本当にそれでいいのか? それで正しいのか?
 それを判断することが、どうしても、できない。
「じゃあ、更に仮の話。もしも首をはねても死なない人間がいたとして、その人間の血液が何の問題もない、普通の液体なんて可能性があるだろうか」
「……?」
「人間の血液には様々な役割があるけど、その究極的な意味は細胞と細胞の連絡だ。酸素を送り、老廃物を回収し、栄養を伝える存在だ。
 けど、首をはねても死なないってことは、脳みそが栄養や酸素を必要としていないってことになる。なにせ血液が繋がっていないのに動いているんだからね。となると、その人にとって、血液とは何の意味があるんだろうか」
 主だった役割を捨てた血液。それは、ただ全身を流れるだけの液体に過ぎない、ということになる。
 不死の力さえ得た化物のような人間が、そんな、何の意味も持たない液体を全身に保管しているだろうか。
「何が、言いたいの」
「さあ。そういえば、吸血鬼、なんてのがいるよね」
「吸血鬼……」
 伝説の存在だ。裏社会が長い彼女でも見たことがないほどの。
 いわく、生き血をすすり、吸った相手の意思を奪い、その体は霧やコウモリに変化することもできるという。
「吸血鬼にとって、血液ってのは特別に力が宿るものらしい。そうでなくても、それこそコウモリやノミみたいに、血液を吸って生きるやつらもいる。やっぱりエネルギーを吸収するのに、血液は効率がいいみたいだ」
「だから、それが何だと言うの!」
「血液を吸う生き物は、吸い込む前にある種の薬物みたいのを注入するんだ。そうしないと、血液は空気に触れると固まってしまうからだ」
「固まる――?」
 血小板という成分が血液の中には含まれている。これは、空気に触れることによって固まり、傷口を塞ぐ機能を持っている。
 そう、血液とは、固められるのだ。
「まさ、か」
 ようやく青年の言いたいことに気付いた少女は愕然とした。同時、青年はにやりと笑ってみせた。
 この男。不死であるばかりではなく、血液を自在に操り、固めることができる――!
 そうであるなら、先ほどからの無防備さも、おかしいほどの余裕も理解できる。
 まるで素人同然の構えでありながら、その実、それは構える必要性さえないことの証。彼にとっては、あらゆる攻撃は意味がなく、逆に攻撃するために近づいてきたところを、カウンターで殺すことができる。固まった、剣ほどの強度を持つ血を操れるのならば。
 彼は、いつでも自分の命を、奪うことができる。
 はっと日向は自らの足元に目をやった。そういえば、自分の足も、その下の地面も、さらには全身が血に濡れている。
 もしも彼が血液を操る能力を持っているなら。そして、それが自分の血液ばかりではなく、他人の血液に関してさえ可能なら。
 それは、この上ないほど、無敵の能力。あらゆる生物は、血液なくして生きることなどできない。
 そうだ、血液をそこまで自在に操れるなら、切ろうが突こうが意味がないのも頷ける。酸素やら何やら、学のない自分では正確な説明もできないが、ごまかす方法などごまんとあるように思える。
 自分は、とんでもない相手を敵にしてしまった……?
「いや」
 待て。今までのは、相手がそう自称しただけのことだ。それら全てが本当のことなのか、それはやってみなければわからない。
 実際に血液を操れるなら、いつでも自分を殺せるのなら、なぜ不意打ちで殺さなかった? 今もなぜ生かしている?
 そもそも、そんな秘密をバラす必要は、あったか?
 途端に真実は虚飾へと変わる。今まで信じていたのがバカらしく感じられるほどの嘘。
 そうだ、いかに裏社会は常識がない場所といっても、そこまでのことがそうそうあるとは思えない。なら、今までのも、全て生き残りたいがための嘘ではないのか?
 そう考えたら、恐れていた自分に呆れてしまった。何を恐れるというのだ。目の前の人間は、少しばかり口がうまいだけの、ただの人間ではないか!
「今、嘘だと思ったでしょう」
 まるで人の思考を読んでいるかのように男性は言った。
「そう思うなら、僕を殺してみればいい」
「ッ!?」
「ほら、どうしたの」
 男性は腕を広げ、少女を迎えるようにしている。今ならたやすく殺せそうだ。そう、ほんの一瞬の後には決着できる。こんな下らない、意味のない会話も終わりにできる。
 そうは思うのだが、そう簡単に行動には移せない。
 その理由は、彼の目にあった。
 彼の目にはいまだに何の色もない。恐怖がないのだ。普通、死ぬとなれば、どれほど覚悟した人間でも一抹の感情の動きはあるはずなのに、この男にはそれがない。
 それこそ、いつ死んでもいいと思っている……、いや、死ぬなどとは欠片さえも思っていない人間でなければ、こんな目はできない。
 彼女は今まで、たくさんの死を目の当たりにしてきた。その彼女だからこそ知っている。人間の目は、死ぬ直前、種類は多いなれど、必ずや何かしらの感情が浮かび上がるということを。
 だから、今、目の前に立ちふさがっている男の真意が読みきれないのだ。
「おま、えは……」
「何?」
「お前は、何なんだ」
 何者だ、とさえ聞けない。そもそもこれは本当に人間なのか?
 圧倒的な力、絶対的な壁である死を前にして、ここまで平然としていられる奴は、本当に人間と呼んでいいのか?
 日向の迷いをあざ笑うように、男はハッキリと言ってのけた。
「僕は、僕さ」
 それ以上でもそれ以下でもない。人を食ったような返答。
「どうしたの」
 今度は男の方が問いかけてきた。日向は警戒のまなざしを男に返す。
「剣。震えてるよ」
 はっと気づいた。いつもなら喉元に突きつけて一ミリも動かないような刃が、今はカタカタと小刻みに震えている。
 違う。これは剣が震えているんじゃない。それを持つ自分が――。
(恐怖を、感じている!?)
 そんな馬鹿なことが。今まで勝利に勝利を重ね、どれほどの逆境も力でねじ伏せてきたこの自分が、何の変哲もない男を相手に恐怖を感じるなど!?
 そんなことが、ありうるのか。
 そんなの、考えるまでもない。
「ふ……」
 日向は、剣を取り落とした。
 ありうるのか、ではない。今、そうなっているのだ。
「どう、やら」
 勝てないらしい。この男には。
 剣を落とすと、途端に馬鹿らしくなった。恐怖も震えも消えた。
「私の負けだ。好きにしろ」
 殺すと脅しても、実際に殺そうとしても、全く動じない人間。そんな相手を殺す勇気は、自分にはなかった。
 何かの覚悟があるわけでもない。ごく自然な風に、死なないと信じ切っているような態度。その態度を打ち崩すことは、自分にはできなかった。
「ふう。よかった」
 男は急に、にへらと笑った。締まりのないその笑顔は、先ほどまでの異様さなど欠片も存在しない。
 彼女は剣を蹴飛ばし、どっかと座りこんで男を見上げる。
「なあ、一つだけ聞かせてくれ。お前は、本当に死なないのか?」
 その質問に、男はちろりと舌を出した。
 はぁ……、と少女は脱力した。
 結局。自分が怖がったのは、ただのブラフだったというのか。
 力が言葉に負けた、その瞬間だった。