しばらく空を飛んだ後、クロバットはトレーナーたちを地に降ろした。バトルフロンティアの北部、山間にある小さな小屋の前だ。一見するとただの山小屋にしか見えないが、屋根の上には大きなパラボラアンテナがいくつも並んでいる。
 ネジキは浮かんだ汗をぬぐい、
「なんとか逃げ切れましたねー」
「まったく。あんたの計画、なんでこんな穴ばっかりなんすか……。ってか、こんなところまで逃げておいて、今さら演じなくていいっすよ」
 イオリはどこか疲れたような口調で言う。
 対するネジキはくしゃくしゃと髪を乱し、
「仕方ないだろう。一般トレーナーが絡んでくるなんて予想外だったんだから」
 言葉使いを変えた途端、ネジキの持つ雰囲気まで変わった。それまでの、どこか真面目なコンピュータ少年といった風情が消え去り、修羅場をくぐり抜けた一角の戦士といった空気が漂っている。
「ショウとナミ。あの二人が全ての原因だな。おかげでお嬢様だけを単独行動させることができなかった。一対一ならボールを奪う可能性もあったが、あんな余計な連中までいては、何もできやしない」
「……まあ、あの二人が乱入したのは意外だったっすね。戦闘力もあなどれないし、頭も悪かない」
「その通りだ。脳みそまで筋肉が詰まっているようなクロツグや、頭を使っていないダリア、盲目的なケイトと違い、ショウは頭が回ってナミは力がある。コクランに対する警戒はしていたが、それ以外は特に何もしていなかったからな」
 ネジキが作戦を立てた際、最も警戒したのはコクランだった。
 カトレアからモンスターボールを奪う。それだけの作戦だったが、彼女の近くには常にコクランがいる。彼はたった一人でお嬢様の護衛をするだけあって、頭も良く腕も立つ上、狡猾だ。彼は、いざとなれば一般人さえ平気で盾に使うだろう。
 実際、彼は全く無関係のショウとナミを巻き込んだ。あるいは、それも作戦の内だったのかもしれない。
「さて、と。これで終わりじゃないんだろ?」
「当たり前だ。これはまだ実験材料を手に入れただけに過ぎない。ここから先が肝要なのだからな」
 言って、ネジキはボールを見下ろした。その中には幻のポケモン、ダークライが閉じ込められている。
「行くぞ、イオリ。これからが本番だ」
 浮かべた黒い笑み。
 それは、真の喜びに満ちていた。

 一方、その頃、バトルタワー会議室。
 そこは無残なものだった。ソファは転がり、あるいは壊れ、ガラスは粉みじんになっている。びゅうびゅうと強い風が部屋の中に吹き込んできていた。
 その中に、一人の少女が茫然と立っている。スカートをはためかせ、金色の髪が風の吹くままに踊っている。
「ダークライ……」
 ぽつりとこぼす言葉。そこに、全ての想いが込められていた。
「カトレア……」
 そんな少女を見て、ナミは顔をゆがませる。
「ごめん。追いつけなかった」
 カトレアは、そっと首を横に振る。
「あなたは何も悪くない。相手が、優秀すぎた。それだけ。元よりこちらは後手で、勝ち目などあまりなかった」
「そんなんじゃ許されないわよ。私は何のためにここにいるわけ?」
 ナミは強いまなざしを向ける。そのせいか、カトレアはわずかにひるんだ。
「私はね、あんたを、このバトルフロンティアを守るために来てんの。ここに。そのために呼ばれ、そのためにいる、用心棒。用心棒が仕事しなきゃしょうもないでしょ?」
「けど……」
「けどもかかしもないっ!」
 一喝し、ナミはふん、と鼻を鳴らす。
「ま、逃げられちゃったもんはどうしようもないからね。これから逆転するわよっ! ここまではやられっぱなしだったけど、こっからは私たちのターンなんだから! 連中の本拠地を見つけて、ぶっ潰すわよ!」
「とは言いますけど、どこに逃げたとかわかるんですか? 何か手掛かりあるとか、相手の動きに予想できる部分があるとか」
 ショウに言われ、ナミはぴたりと口を閉じる。
 まず真っ先に目をやるのはショウ。
「俺だってさすがにわかりませんよ」
 肩をすくめる。当然だ。
 続けてナミが見たのはカトレア。
「わたしも、思い当たる節はない」
 ふるふると首を左右に振る。
 ナミは若干、脂汗を浮かべながらコクランを見る。
「わたくしめも、特に心当たりはございません」
 最後に、クロツグたち――ブレーンの面々を、誰ともなく見やるが。
「特に」
「あたくしもさっぱり」
「ダリアもー」
 そして、沈黙が落ちる。
 しーんと静まりかえる中、逆に集まる視線。その先にはナミ。
「え、っとー……」
 汗を流しながら、苦しげに呟く。
「どうしよっか」
 てへへ、などと笑いながらごまかしてみる。が、返ってきたのは笑いでも怒りでもなく、単なる疲れたため息だけだった。
 広がる疲労感。吹き込む風がやけに冷たく感じる。
「まーまー、ケセラ・セラ♪ なんとかなるよ!」
「……何よ、そのケセラ・セラって」
「なるようになるってこと! 慌ててもしょうがないよ。ダリアたちにできることは限度があって、限界いっぱいまで頑張って、どうにもならない時はスパッと諦めるの! それで、次のチャンスを考えるの!」
「楽天的ねー、あんた」
「そう? だって、過ぎたことは変えられないんだよ! だったら、これ以上は悪くならないように頑張ればいいのっ!」
 くるくると回るダリア。その、底抜けに明るい踊りを見ていたナミは、ふっと苦笑を洩らす。
「ま、私たちが深刻になったってダークライが戻って来るわけじゃないもんね。仕方ない、行くわよ、カトレア。ショウ」
「あ、はい。って、カトレアちゃんもですか?」
 言われた当人も意外だったらしい。カトレアも目を丸くしている。
 けれど、ナミにとって、それは当然の答えだった。
「あったりまえでしょー? 自分の友達だか相棒だかが連れ去られたのよ。自分で助けに行かないで、何がトレーナーよ」
 彼女にとって、トレーナーとはそういうもの。
 傷つくことはない。だからこそ、ポケモンのために一生懸命にならなければいけない。そうやって、ポケモンと一緒に傷ついていく。
 それは、彼女にとって当たり前の理念。だからこそ、彼女のポケモンたちが、彼女に付き従える。無茶に付き合い、命をかけることもできる。
「――ありがとう」
 カトレアの漏らした小さな声は、誰の耳にも届かなかった。それでも、その気持ちを受け取ったナミは、歩み寄ってカトレアの手を取る。
「ほら、行くわよ」
「う、ん……」
 よたよたと頼りない足取りで歩むカトレア。その足が絡まり、どさり、と床に倒れ込む。
「ちょっとあんた、運動能力ないにも程があるわよ」
 呆れた調子でかがむナミは、少女の顔を見て、首をかしげる。
「どしたのよ、ちょっと」
 目をつむっている。規則的な呼吸。それは、まるで――否、まさに寝息だった。
 そう。カトレアは、眠っていた。何の前触れもなく、突然に。
「ちょっとコクラン、これってどういうこと、よ?」
 顔を上げ、気付く。ブレーンたちが、揃って床に倒れ伏している。
 クロツグ。ケイト。ダリア。そして、コクラン。歴戦の猛者たちが、戦う前に倒れている、この状況。
「ちょ、ちょっとショウ! これってどういうこと!?」
「やられ、ましたね……」
 彼もまた、辛そうに頭を抱える。重くなるまぶたに必死の抵抗をしながら、
「これが、相手がダークライを奪った、目的だ……」
「あんたまで!? 何よ、これ!」
「ナミ、さん。逃げ、て……」
 ばたり、と倒れるショウ。そのまま、深い眠りに落ちる。
 ナミはくちびるを噛み、走り出す。窓から外を見下ろし、
「何よ、これ――!?」
 見渡すフロンティア。
 その、そこかしこに、人が倒れていた。動く人は見当たらない。みな、眠ってしまったのだ。
「まさか、これが相手の目的?」
 ダークライの力。それは悪夢を見せる力だという。それを利用し、こんな現象を引き起こしているのだろうか。
 だとすると、幻のポケモン、いったいどれほどの力を持っているというのだろう。
「……!?」
 突如。今まで耐えてきたナミにも、睡魔が襲いかかる。
 抗いがたいほどの、強烈な衝動だった。そのままナミまで会議室の床に倒れる。
 事実上、優秀と言えるトレーナーたちは、その全てが悪夢の中に囚われた。