チリン――


 怖い。
 たまらなく怖い。どこまでも怖い。逃げ出したいくらい怖い。
 けど、逃げるわけにはいかない。最期に報告するのは僕の責任だ。というか、逃げられるわけない。
 なんて思っていると、コンコン、と扉がノックされた。
「どうぞ」
 言うが早いか、扉が勢いよく開かれる。部屋で入ってきたのは、真理先輩。無表情。怖い。
「くー。自分がどんな状況か、わかってるよね」
「は、はい」
 だまーって見下ろす先輩を見上げる形になる。せめて座って欲しいけど、とても言い出せない。
「えっと、腕、足、腹なんかに合わせて七箇所の裂傷。失血がひどくて、病院にあった輸血用の保存血液だけじゃ足りず、陽平さんに輸血してもらったとか」
「よくわかってるじゃない」
 言って、ぐい、と顔を寄せる。
「くー。あなたは一般人。理解しているよね?」
「はい。ですけど、ただの一般人というわけでもありません」
 先輩の目を見つめ返す。その目の奥に、色を見出す。
「僕は今回、僕にできる事をしました。そして、僕が望む最高の結果を得た。
 まあ、僕はまた死にかけましたけど、なんとなく死なないなってのは思っていたんで……。もし、また同じような場面に出会ったら、僕は同じ事をすると思います」
「――そう」
 先輩はじっと僕の顔を見つめ、いきなり、ぐいとほっぺをつねった。
「へ、へんぱい!?」
「遠藤紅葉君。君は、相変わらず無茶して私に心配をかけるという癖は抜けていないようだね」
 割と本気でつねっているせいで、今はどこよりもほっぺが痛い。
「まあ、今回は私もしょうがないかなって諦めてる。それに、くーにそういうところがあるから、私も一緒にいるんだと思う。でもね? 君は、プロフェッショナルじゃないの。どんな危険な状態からも生き残ってこれるようなプロじゃない」
 パッと先輩が手を離した。ほっぺを優しくなでる。熱を持っていた。
「ねえ、くー。お願いだから、死なないでね。私、くーがいなくなったら、本当に、どうしたらいいかわかんないから……」
 涙は流れていない。
 でも、僕の彼女は泣いていた。
「すみません」
 だから、謝った。
 そして、もう一度。
「すみません。僕の選択、先輩をまた泣かせちゃうかもしれません」
「もう諦めてるからいい。ただ、お願いだけは絶対に守ってね」
「――はいッ!」
 これは、僕の選択。
 これは、僕の約束。
 これが、僕の生き方。
 正解はわからない。そんなものがあるのかも知らない。
 ただ、僕は僕にできる最善を尽くしたい。僕の持つ能力を使って、僕にしかできないやり方で。
「あー、邪魔、だったか」
 びくん、と肩がはねた。
 いつの間にか、入り口のところに公平さんや鯉田さん、三上さんまでもが立っていた。ちょっと気まずそうにしている。気まずいのはこっちだ。
「悪いな、席ぃ外すわ」
「お邪魔したの」
「よ、よく考えたらあなたがたは恋人同士でしたね……。気が利かず申し訳ありませんでした」
 そのまま出て行こうとする三人。それを、僕は呼び止める。
「あ、ちょ、ちょっとすみません。公平さん」
「お? な、何か用か」
 少しためてから、僕は思い切って言う。
「ちょっと、連絡を取りたい人がいるんですが」
「か、構わねーけど、オレの知り合いか?」
「はい。天野さんです」
 ここが、僕の新たな始まり。


 チリン――


 月が徐々に明るさを増していく。日毎に、まるで前途を照らすように。
 現在のように人工的な光のなかった時代、月は私たちの道を照らしていた。陽の下を歩けない私たちが道を歩く時、その共となってくれたのは月だけだった。
 私たちは、月と共に育ち、月の下で生きてきた。
「ねえ。あんた、これからどうしたいの?」
 視線を下に向ける。桜色の悪魔――いや、死導者が、私を見上げていた。
「……今の私には何もない。けれど。やるべき事は決まっている」
「それは何かしら」
 桜色の死導者と共に歩む、黒き死導者。前者が力の瞳とすれば、後者は抱擁の瞳。力強さはないけれど、安心して見ていられる芯の強さがある。任せていいと思える。
「私の役割はひとつ。今も昔も。悪魔を殺す事。それだけが私の全てだから」
「その真の意味は、もう気がついたわね?」
「もちろん」
 悪魔というのは、目に見える存在ではない。確定的な姿を持つ存在ではない。
 それは、誰の心の中にもあり、誰をも堕落させる可能性を持つもの。
 人の心に潜む悪魔を殺す事。
 それが、私のこれからの役目。役割。
「だーかーら、そんなに気負ってどうするのよ。適当でいいの、んなもん」
「適当?」
「そ! あんたはあんたなんだから、約束に縛られる必要はない。あんたがやるべきって思う事をやればいいのよ」
「それなら。やはり私は。悪魔を殺す」
「……わっかんない子ねぇ」
「大丈夫よ、ケイ」
 ケイを手で制し、アンジェラは私を見上げる。
「何のためか。それだけは忘れないようにね」
「――」
 何のために生きるのか。
 何のために戦うのか。
 その答えは、最初から知っていた。ただ、私が見失っていただけで。
「もう。思い出した」
 私の目的を。
 見上げたところに輝く月は、道標にも見えた。


 チリン――


「いやー、嬉しいよ。遠藤君みたいな人がいてくれると、こっちも助かるのよ」
 公平さんを経由して連絡してもらった天野さんは、部屋に入るなり部屋中に響くような声で言った。個室でよかったと思う。大部屋だったら確実に白い目だ。
 と、続けて人が入ってくる。いつも通りの黒コート姿。陽平さんだ。今日はちょっと不機嫌そう。
「天野さん。あなたは呼ばれたから来るのはわかりますが、どうして私まで見舞いしなければいけないのですか」
「細かい事は気にしない。そーれ?」
「下らない冗談は興味ありませんが」
「もう、素直じゃないね。あなたも遠藤君のお世話になったんでしょー? この病室を手配したのだってあなたじゃない。一度くらいは来ておきなさいよ」
「あ、そうだったんですか?」
 聞くと、陽平さんは視線をそらした。
「別に、君のためじゃない。ただ、君の場合は周囲が騒がしいから個室がいいだろうと思っただけだ。この病院は我々の関係について詳しい人が経営しているから、多少の融通は利くんだよ」
「助かってます」
「それと、治療費は出世払いという事にしておいてやる」
「……ありがとうございます」
 苦笑が浮かぶのが止められない。それを見て、陽平さんはますます眉を寄せた。
「それにしても、急にどうしたの。ウチでバイトしたい、なんて」
 天野さんは小首を傾げた。理由を説明しようとして、話すと長くなるなと思い至る。
「ちょっと、色々ありまして。詳しくは公平さんにでも聞いて下さい」
「んー? ま、いっか! じゃ、諸々のセッティングとかはまた今度って事で、今日はとりあえず意思確認ね」
 言って、天野さんはずいと顔を寄せる。
「本当に、ウチでバイトするの? アタシが言うのもあれだけど、ウチの仕事はあんましよくないよ? 給料はそれなりに出すけど、何より危ないし、世間からは詐欺師のような扱いを受ける事も多いからね」
「けど、僕の力が活かせる場所である事も間違いありませんから」
 天野さんは、オカルト的な現象の調査をする事務所を開いている。大半は幽霊なんて関係のない自然現象らしいけど、場合によっては幽霊が関係する事もある。そういうものに対抗するには、僕のような、見える人間が必要だ。
 ……きっと、星さんのように苦しんでいる人はたくさんいる。いや、今までもいた。僕はそれを知っていた。だけど、なんだかんだと理由をつけて、僕は積極的に関わってきたわけじゃない。
 僕は、プロじゃない。なら、プロになればいい。
 もう死なないように。もう、悲しませないように。
 人が死ぬなんて、たくさんだ。
「――驚いた。本気なのね」
「冗談だと思ってたんですか」
 思わず苦笑が浮かぶ。天野さんも、同じように苦笑を浮かべた。
「はは、まーね。だって、普通はウチで仕事しようなんて考えないもんねぇ。ま、いいよ。君の覚悟は受け取ったよ」
 言って、天野さんはちらりと陽平さんを見た。陽平さんはコホンと咳払いし、
「あー、これは君がこちら側に来る事に対する警告のようなものだが」
 言って、陽平さんはコートのポケットから何かを取り出し、ぽんとベッドの上に放り投げた。
 見れば、それは鞘に収まったナイフだった。
「な、何ですか、これ?」
「陽平君なりのお祝いよ」
 天野さんは僕の代わりに鞘からナイフを引き抜く。ナイフには、複雑な模様が刻まれていた。
「炎覇斬。火野だけが持つ秘伝の術式を刻んだ、生に反応して炎を発するナイフだ。退魔の世界でこれを売ったらそれだけで数年は遊んで暮らせる代物だぞ?」
「なッ……!? そ、そんな高級なもの、貰えませんよ!」
「いいのよ、もらっときなさいって。どうせこんなの、売るわけにはいかないんだから。それに、この陽平君が誰かにプレゼントするなんて、アタシが知る限りじゃ初めてなのよ?」
 それは喜んでいいのか、よくわからない情報だと思う。
「代物としてはただのナイフだ。火野の独自の術式を刻んでいるだけに過ぎない。まあ、お守り代わりとでも思っておけばいいんだろう。実際に君がこれを使えるわけじゃないだろうからな」
 言われて、改めてナイフを見る。
 確かに僕はナイフを使った格闘術を知っているわけじゃない。そもそも、そんなものを一般的な大学生が知ってるわけない。
「君がこれから首を突っ込む世界は、そんなものでも足りない世界だという事を認識すべきという意味だ。理解できるな?」
 もちろん。気持ちを込めて、頷き返す。
 素人が下手に武器を持つと護身にもならないと聞いた事がある。けど、今後はこういったものも扱えるようにならなきゃいけない。
 この間の事を思い出す。両腕を封じられた時、僕は何もできなかった。
 さらにその前、ファミレスに強盗が来た時も、僕は何もできなかった。
 それも、ナイフが使えるようになれば、なんとかできるようになるかもしれない。
 力でどうにかするというのは好きじゃないけど、今回のように、力が必要になる場面も出てくるかもしれない。
「伝家の宝刀か」
 抜かれない方がいい力。
 力は、そういうものだと思う。
 決意も新たにナイフを眺めていると、ノックの音が聞こえた。どうでもいいけど、訪問客の多い部屋だよね……。
「どうぞ」
 声をかけると、思いがけない顔が覗いた。
「あれ? アルバート?」
 部屋に入ってきたアルバートは、若干、居心地が悪そうに見える。
「どうしたの、珍しい。来ないと思ってたよ」
「ぼくも君と馴れ合いたいわけじゃないんだけどね」
 返答し、アルバートはちらりと天野さんたちを見た。その目が暗に席を外してくれと言っている。
「あ、気にしないでいいから」
 それがわかってるだろうに軽く無視する天野さん。大物なのか、単にそういう趣味なのか。陽平さんもアルバートが何の用事で来たのか気になるのか、動く気配はない。
 アルバートは不満そうな視線を返してから、僕をにらむ。
「――ほら」
「え?」
 ぽい、とベッドの上に投げ置かれたのは、十字架のついたネックレスだった。
「こ、これは?」
「それはイギリスの教会メンバーが使っている身分証明みたいなものだよ。簡単な護符にもなっている。ぼくはもう使わないからね、君にあげるよ」
「いいの? そんな大切なものを貰って」
「言っただろう? ぼくはもう使わないんだ。それに、あー、なんだ……」
 言いにくそうに頬をかきながら、アルバートはぼそぼそと喋る。いつもの覇気と自信に満ち溢れた態度からすると想像できない姿だ。
「まあ、お礼、のようなものだ」
「お礼? な、なんで?」
「だからっ! マリアの仇を討った、礼のようなものだよ」
 頬を朱に染め、そっぽを向きながら言うアルバートは、年齢以上に幼く見えた。あるいは、こんな経験は初めてなのかもしれない。
 そう思うと、自然と口元が緩む。
「ありがとう。大切にするよ」
「嫌なら壊してくれて構わない。じゃあね、ぼくの用件は終わりだ」
 一方的に告げ、バタンとわざと音を立てて部屋を出て行ったアルバート。
 閉じた扉を眺めながら、くすくすと笑うのは天野さん。
「あの子、可愛いわね」
「僕も初めてそう思えましたよ」
 やっぱり、まだ子供なんだよね。
 ベッドの上に視線を落とす。
 火野のナイフに、イギリス十字か。
「なんだか、本格的」
 これから本物になるんだけど。
 なんとなく、そう思った。



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