チリン――


 最初に動いたのはエルだった。
 ひくひくを動かした鼻。目は窓の方に向いている。
「エル。どうかしたの?」
 アンジェラが声をかけると、その頭に乗ったエルは小さく「きゅう」と鳴いた。
「――マモンが?」
「マモンがどうかしたの、アンジェラ」
「マモンが近づいていると、エルが」
 強欲のマモン。死導者のひとりだ。
 僕は立ち上がって窓を開けた。少し雲の出てきた空。遠くの方を見ていると、その姿が見えてきた。
 黒い、小さな点。それは刻一刻と大きくなり、やがて、はっきりとした人の形となった。
「あれ? 誰か連れてるね」
「あれ、百合じゃない?」
 僕の横から覗いたケイが言う。
 言われてみれば、あの白い服、間違いなさそうだ。
「だったら、ベルも一緒に――って!?」
 向こうと僕の視線が合う。けど、向こうは僕を見つけた後も減速する気配がなかった。まさに、解き放たれた弾丸を思わせる突撃。
「うわっ!?」
 避ける暇も余裕もない。突っ込んできた何かは、そのまま僕に体当たりしてきた。衝撃で吹っ飛ぶ。
「キャッチ!」
 どしん、と背中に柔らかい感触。見れば、先輩が僕を抱きかかえていた。
「あ、ありがとうございます、先輩」
「くー、怪我ない!?」
「だ、大丈夫です。それより……」
 僕は視線を下に向けた。僕の腕の中で、白井さんは気絶してるし、男の子は小さくうなっていた。
「君がマモン?」
「あ、ああ? 誰だ、お前」
「僕は遠藤紅葉。それより、何があったの」
 男の子――マモンは、頭を抱えながら起き上がった。顔をしかめているのは痛みのせいか。
「マリア、天使が来た」
「天使が!?」
 言いながらも、マリアは立ち上がっている。ケイやアンジェラは、すでにいつでも飛び出せる体勢だ。
「今は、ベルフェゴールが相手をしている。俺っちは、この子を逃がすのが精一杯でな。すぐに戻らなきゃならない。ここなら、安全か?」
 マモンは僕を見上げた。僕は頷き、先輩を振り返る。
「先輩、白井さんをお願いします」
「くーは?」
「僕は、病院に行ってきます」
「……そう」
 意外なまでにあっさりとした態度には、むしろ僕が拍子抜けした。真理先輩は顔を伏せ、くちびるを小さく震わせている。
「くーは、星さんをお願いね」
「え?」
「それほど長く一緒にいたわけじゃないから正しい事は言えないんだろうけど、星さん、悪い子じゃないと思う。アンジェラたちが悪い子じゃないって事もわかってる。そんな争い、くーじゃなくたって嫌に決まってるじゃない」
 先輩は子供みたいに僕の服の裾を掴み、じっと見上げていた。瞳が濡れていた。
「絶対に、帰ってきてね。できれば星さんも一緒に」
「――はい、わかりました。頑張ってみます」
 先輩の指を服から引きはがし、立ち上がる。振り返り、
「じゃ、行こうか。
 ……? みんな、どうしてそんな微妙な表情をしているの?」
「あんた、自覚ないわけ?」
「何が?」
 やれやれ、と首を横に振るケイ。意味がわからない。
「とにかく。時間がないんでしょ? 急ごう」
 ベルと星さんの戦い。
 そんなもの、させちゃいけない。


 チリン――


『以上がこちらの情報だ』
「ありがとうございます、アークビショップ」
『いや、構わない。君には色々と無理もさせているからな。だが、どうして禁書棚なんて知っていたんだ? あれは極秘情報だったはずだが』
「そ、それは、以前にアルバートから聞いていたので……」
『彼か。まったく、口が軽い部下だよ。いや、元部下か。
 ともかく、君は言わずともわかっていると思うが、あまり他言しないでくれ。禁書が禁じられているのにも、相応の理由がある。今回の引っ張り出した過去も、本来は眠っていなければいけないものなんだから』
「はい、承知しております」
『それじゃあ、また任務が入ったら連絡する』
「はい。失礼します」
 受話器を置き、わたしは隣に立つ金髪にも似た茶髪の少年を見た。
「と、いう事のようです」
「ああ、十分だよ、愛」
 私に禁書の存在を教え、その調査をさせた張本人は、満足そうに頷いた。
「この情報とマリアから得た情報を合わせれば、正体とまでは言わなくても、似たようなものには辿り着けるだろうね」
 アルバートの前には、アークビショップに調べて頂いた禁書の内容を要約したものがメモしてある。もちろん、禁書そのものは持ち出し厳禁。内容も外には出してはいけないものだが、教えてもらえたのは、わたしの信頼という事になるのだろう。
 経緯はどちらでもいい。最も重要なのは、ここから導き出される答えだ。
「アルバート、これだけの情報からわかるのですか?」
「ぼくを誰だと思っているんだ? 教会の名は捨てたが、天才の名前まで返上した覚えはないよ」
 そう言われても、わたしにはさっぱりだ。
 調べた出来事があったのは二千年近く前らしい。けれど、その頃にイギリスに教会はない。そもそも、現在のような形の教会さえ存在しなかった。
 そんな時代の出来事、調べようとしても、そうそう調べられるものではない。実際、アークビショップが見つけてくれたのも、口伝をまとめただけの冊子だったらしい。それでは正確な情報とは言いがたい。
 もちろん、それ以外に天使の目撃情報などの情報も調べてもらったが、たいした情報はなかったらしい。わたしも天使なんて存在は聞いた事がないし、当然だと思う。
「その昔。イエスは各所で奇跡を起こした。盲人を触れただけで癒し、わずかな食料で大勢の人々の空腹を満たした。現在の常識で考えれば、退魔師だって不可能だね。ゆえに、それが可能だったイエスは奇跡の人と呼ばれるわけだ」
「天使はそれが可能だと……?」
「いや。仮に天使という存在が実在し、二千年もの間、それがずっとこの世にいたとして。それだけの力を持った者の片鱗がどこにもないのはおかしい。そう、おかしいんだ。本当は」
 言われてみれば、たしかに。
 能力者として生活すると、望む望まざるに関係なく、大なり小なり力の片鱗を各所に残す。
 圧倒的な生を持つがゆえの波動。それだけの能力を持っていれば、戦いを吹っかけられる事もありうる。そうした、力の余波というものが、歴史上にひとつもない。それは、おかしな事だ。
「そうなると、やはり天使などという存在はなかったという事ですか?」
「いいや、それもありえない。仮にもマリアは歴戦の古強者だ。そんなマリアが敵の正体に関してそこまで極端に見誤るとも思えない。
 いるんだよ。歴史に名を残さない、強大な能力を持った死者が」
 それが、マリアの戦ったという、天使?
「マリアが最初に出会った時、相手の気配が感じられなかったって言っていたね。それがヒントだと思う。要するに、天使は自分の能力に関してある種の封印を施しているんだ。通常は見えない。けれど、必要になった時にはすぐに発動できる。そういう能力だ」
「まさに天使ですね」
 天使はあくまで神の意志の代弁者。そのため、能力としては神に匹敵するほどのものを持つが、あくまで神の意志がない場所では力を使う事ができない。
 また、天使が普通の人に混じって生活していた、なんていう話もある。つまり、力を使う時を除き、天使の力は察知できる類のものじゃないという事になる。
「それに……、もしもこの記述が正しく、そういう能力の者がいるなら、なかなか面白い事実がわかるかもしれないよ」
「面白い事実、ですか?」
「ああ」
 アルバートはわたしを見て、くすりと笑った。
「もしかすると、天使は本当に人間かもしれない」


 チリン――


 ケイに引っ張られながら、僕は空を飛んでいた。
 僕の前にはアンジェラとマリア。後ろにはマモンがいる。
「ねえ、ケイ。ベルフェゴール、無事かな」
「あたしはあいつの戦いをちょっとしか見た事ないけど、アスモデウスの攻撃は完封してた。あいつはいつだって戦う気力なんかなさそうな奴だけど、本気になれば、かなりの実力者よ。油断もせずに時間稼ぎをするだけなら、なんとか持つと思う」
 ケイがこれだけ評価しているのは珍しいんじゃないかと思う。
 それでも、『なんとか持つ』程度。
 ケイは直接に星さんと戦ったわけじゃない。それでも、相手をかなり強いと評価している。
 それは、マリアが倒されたという事実に由来するものだろう。となると、僕たちも急がなきゃいけない。
「見えたわ!」
 前方に目を向けると、遠くに白い建物が見えた。その上空に、何かが大勢、集まっている。それが、まるで生きた雲のようにも見えて。
「絶対に、させない!」
 マリアは飛びながらも、腕で大きく十字を描く。
葬送の魔炎ファニリール・フレイムッ!」
 十字の炎が、物凄い速度で飛んでいる僕らよりもさらに早い速度で飛んでいく。それは雲の端に当たり――。
「ッ!」
 爆音と炎の欠片を撒き散らした。これだけ遠くなのに、こんなにもはっきりと衝撃が伝わってくる。空気が震えたのがわかる。
 それは、マリアの気迫。殺意にも似た、マリアの想い。
 爆発のせいか、雲が分かれていく。その間にも僕らは迫り、やがて、病院の屋上に辿り着いた。
 近くで見ると、雲を構成していたのが兵士だというのがわかった。けれど、そのどれにも人間らしい感情は見えなくて、ロボットのように見える。
 これが、星さんの能力。人形兵士を作り出す力、か。
「ベルフェゴール!」
 割れた兵士たちの向こう。闘技場を思わせる開けた空間で、ベルと星さんは対峙していた。
 マリアはすぐさまベルに駆け寄る。それを守るように、アンジェラとケイが前に立った。
 けれど、星さんはその誰をも見てなかった。星さんは、ただ、ひとりだけを見つめていた。
 すなわち……、僕を。
「星さん」
 僕は決して大きな声を出したわけじゃない。なのに、星さんは怯えるように肩を震わせた。
「星さん。君は、自分のしていた事を理解している?」
 落ちる沈黙。やがて、星さんはパチンと指を鳴らした。
 途端、兵士たちの姿は消えた。最初からそこに存在などしていなかったように。僕の夢か幻であったかのように。
「何故。ここに来た」
「君を止めるために」
 はっきりと返した僕を、さらなる迷いの目で見た星さんは――。
「あ!?」
 きびすを返し、逃げ去った。
「待ちなさい!」
 剣を取り出すケイをちらと振り返り、
「千年兵」
 先ほどの兵士の大群が僕らを囲う。全員、手にしているものは盾だ。殺傷能力は高くないが、これを抜いて彼女を追うのも難しいだろう。
「星さん……」
 君は、何を考えているんだ?



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